天牛(紙切り虫)

私が関心のある、気に入った、「新聞」・「メルマガ」等のニュースをまとめて紹介します。「コメント」は歓迎ですが、「公開」の前に、判断をさせていただきます。

カテゴリ: 宗教関係

200921 五木寛之さんに聞くー中国新聞
            *図・表は、クリックで拡大

亡き人からの励ましの言葉

DIAMOND Online(江田智昭 ダイヤモンド・セレクト編集部)

2020.9.21

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                                       本山佛光寺(京都)投稿者:よっき@yokki256 [202071]

不安な私が安心となった言葉

 「田の字」と呼ばれる京都の中心部、四条通と五条通の間の下京区新開町にあるのが真宗佛光寺派の本山佛光寺です。昔から塀に設けた大きな掲示板による掲示伝道に力を入れているお寺さんで、2年前にも「つくられた幸せで」という掲示板をご紹介しています。

 この掲示板の中で、今年3月に亡くなった志村けんさんの有名なギャグが登場します。1980年代後半、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』でやっていたコントの中で、志村さんが3連のうちわ太鼓をたたきながら「だいじょうぶだぁ」と叫ぶギャグは、子どもたちに大ウケしました。いまでも鮮明に覚えている方は大勢いらっしゃるのではないでしょうか。

 それから約30年余り月日がたちました。新型コロナウイルス禍の終息のめどがいまだにたたず、社会全体が不安を抱えた現在、志村さんからの安心を与えてくれるメッセージとして私たちはこの言葉を受け取ることができます。

 志村さんが亡くなられた直後、実は多くの浄土真宗のお寺の掲示板にこの「だいじょうぶだぁ」という言葉が張り出されていました。浄土真宗では「南無阿弥陀仏」という念仏が重要とされており、「あなたを救うからだいじょうぶ。安心しなさい」という「仏様からの呼び声」とされています。ですから、「仏様からの呼び声」と「だいじょうぶだぁ」という言葉には、意味的に重なる部分があるのです。

 「だいじょうぶ(大丈夫)」という言葉は一般に「安心できるさま」を意味していますが、実は『涅槃(ねはん)経』という経典の中では「仏」の異名として登場しています。つまり、「だいじょうぶ(大丈夫)」とは本来、「仏」を意味する言葉でもあったのです。

 志村さんは恐らく、そうしたことは全く知らなかったと思いますが、このような点を踏まえると、「だいじょうぶだぁ」という言葉には少し仏教的な要素が含まれていると捉えることもできます。
 
 シルバーウイークはお彼岸と重なり、22日の秋分の日はお彼岸の中日にあたります。お寺やお墓参りをされる方も大勢いらっしゃるのではないでしょうか?

 今は亡きご先祖さまや仏様からの呼び声(メッセージ)に耳を傾けながら、お参りをさせていただく日にしたいものです。

対面が叶わない中で、どう故人を供養するか


東洋経済オンライン(
塚本  : 終活・葬送ジャーナリスト)

2020/09/17

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感染症で亡くなった場合、葬儀を行う際にさまざまな制限が出てきます。故人をきちんと供養するにはどうすればいいのでしょうか(写真:タカス/ PIXTA


新型コロナウイルスで亡くなった場合、遺体は感染予防のために病院内で非透過性の納体袋に入れ、そのまま納棺が行われる。そのため、遺族は対面が叶わない。

志村けんさんの場合も、遺族は、出棺には立ち会っているものの、非透過性の納体袋に入っていて開封されないために対面はできず、さらに、火葬場へ立ち入ることができなかったため、火葬にも収骨にも立ち会うことができなかった。

もっとも、火葬場の運営方法は火葬場により異なり、遺族が火葬場へ立ち入ることができないところは少数のようだが、火葬に立ち会うことができても非透過性の納体袋が開封されないために対面できないことが多いようだ。

葬儀の制限が多く悲しみもより大きい

このように、平常時に比べて非常に制限された葬送しか行われていない現状に対し、民俗学者で葬送分野に造詣が深い国立歴史民俗博物館の山田慎也教授は、「今回の場合、先の東日本大震災と同様、今まで当たり前に行われてきた死者への儀礼が、いわば外側の力によってできないということになり、悲しみはよりいっそう大きくなっています。だからこそ、死者への儀礼は欠かせないのです」と話す。そこで今回は、葬儀に関するそれぞれのプロセスを、民俗学の視点から見ることで、感染症で亡くなった人の弔い方を改めて考えてみようと思う。

まず病院で亡くなると、通常は遺体を自宅に搬送し、布団に横たえて安置。枕飾りを設ける。現在は葬儀社などの霊安室に安置する場合も多く、自宅での枕飾りはあまり行われなくなったものの、遺族が自宅安置を希望すれば可能だ。ただし今回は希望しても感染リスクを避けるために叶わない。

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                                  佐渡市の間接的な枕飾り(写真:山田教授提供)


遺体安置ができなくても、故人と向き合う場を設定することもできる。新潟県佐渡市では、遺体のそばに枕飾りを置かない。臨終後、遺体は納戸など生前故人が寝ていた部屋に横たえられるが、この部屋に入るのは近親者のみで、戸は閉められている。(山田慎也『月刊住職』259号)

すなわち、寝室自体が喪屋のようになっている。その部屋を拝するために部屋の外側には屏風を逆さにして机を置き、香炉や燭台、供物などを載せる。つまり、間接的な枕飾りがなされているのである。

このような間接的な礼拝空間の設置は、近代化が進む台湾や韓国などアジア地域でも広まりつつある。

台湾では、風水の関係で葬儀までの期間がある程度長いため、遺体は冷蔵の安置室に安置される。台北などでは大規模な施設は多数の棺をまとめて安置しており、それとは別の部屋が「拝飯室」として、位牌を安置し供物を供える空間となっている。葬儀までの間、遺族は礼拝のためにここにやってくる。

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                                 台湾の 「拝飯室」 (写真:山田教授提供)


韓国の場合も、葬儀場にはいくつもの葬儀室が設けられているが、日本とは異なり、遺体はそれぞれの部屋に安置せず、地下部分に設けられた集合的な霊安室に置かれる。

葬儀は、その霊安室に遺体を安置したまま、それぞれの葬儀室で行われている。つまり、遺体と距離をとって葬儀ができる空間ができているわけだ。

納棺を代理で行う方法もある

「今回の事態においても、病院の霊安室を遙拝する枕飾りを自宅に設置することは、臨終まもない時点で自由に移動することが難しい遺族にとって、故人と向き合う場として考慮してもいいと思います」と山田教授は話す。

納棺も故人との別れを実感する重要な場である。死装束や故人が愛用していた衣服を着せ、遺品などを納めることは、故人への想いを添える実体的な行為として、重視されてきた。

実は納棺に関しても、補完する手段がある。葬祭業者も納棺に立ち会うことが可能な場合には、故人の衣服や遺品を葬祭業者が事前に預かっておき、それを遺族の代わりに納めることができる。慣習上というよりも現実的な代理行為であるが、納棺がなされないよりはいいとの考えもある。

なお「出棺時の花入れ」は、遺族の依頼があれば葬祭業者が花を用意することも可能だ。また眼鏡などの遺品は、火葬後、骨壷に収めることもよく行われており、火葬後の遺骨自体は、感染リスクはないので、遺族でも対応できる。

また今回は、コロナウイルス感染で亡くなった人だけでなく、それ以外の理由で亡くなった人も、感染防止の観点から火葬を先に行う遺族が多くなっている。火葬だけで終わりにして、葬儀を行わないことを「直葬」といい、近年、都市部を中心に増えてきており、東京では葬儀件数の34割ほどを占めるようになってきているとの声もある。

遺族が納得していれば問題ないが、葬儀を行いたい遺族にとって「直葬」は大きな問題になっている。そこで想定されるのが「骨葬」だ。骨葬というのは、あらかじめ火葬を済ませ、遺体ではなく遺骨を対象に葬儀を行う形式である。骨葬を行っている地域は、北海道、東北、東京近郊以外の関東地方や、中部地方、和歌山、九州の一部などにモザイク状に広がっている。

それ以外の地域では、葬儀を済ませた後に火葬を行っているため、火葬を先に行うことに対する違和感は今でも強い。それでも、感染リスクを考えると、葬儀前の火葬も視野にいれる必要があるだろう。

過去にも火葬を先に行っていたケースも

なお、近年までは、とくに社葬などの大型葬においては、「密葬と本葬」という呼び方で、火葬を先に行って近親者だけで密葬を行い、後日、多数の参列者を含めた葬儀を本葬として行っていた。この場合の密葬は、火葬という遺体への対処を先に行うということが主目的になっている。

さらに遡ると、近世期においては「空荼毘(カラダビ)」という、遺体埋葬が終わった後の葬礼を意味する用語があった。荼毘は、火葬だけでなく葬儀の意味もあるので、遺体なしの葬儀という意味と捉えられるという。

最上孝敬氏の『霊魂の行方』によると、千葉県匝瑳郡野栄町(現匝瑳市)の堀川地区ではカラタビを、カラダメといい、近親者と僧侶だけで墓地に埋葬し、その後、家に帰って葬儀を行った。その理由は、かつて、ある旧家での葬儀の途中、一天にわかにかき曇って疾風が起こり、火車が現れて棺内の遺体がさらわれたため、堀川ではその後、カラダメを行うようになったという。

また、岐阜県大野郡丹生川村(現高山市)では、農繁期に亡くなると、先に埋葬し、その後に改めて葬儀をしていた。旗鉾村のある家では、7月の養蚕の忙しい時期に父親が亡くなったため、埋葬だけ済ませ、9月になって本葬をした。その時は、小さな棺をつくって担いで行ったという。他の地区でも同様の例が見られ、「農繁期で忙しいなどの理由で、埋葬の後で時間を経て本葬を行うという形態があった」(最上前掲書)。

和歌山県東牟婁郡串本町古座でも、カゲカクシやカゲヲカクスと呼ばれる、葬儀前の埋葬が行われた。墓掘りは、通常は早朝に行われるのに対し、カゲカクシの場合には午後に掘る。棺を運ぶ乗り物は、通常は輿で昼間に公にして担ぐのに対し、夜半に専用の駕籠で密かに下げていく。埋葬時間も通常では午後であることに対し、カゲカクシでは夜半だ。このような対立的な儀礼によって、「正規の葬儀ではなく、仮のもので本葬とは異なることを強調したものと考えられる」という(山田 前掲誌260号)。

葬儀に参列できない時は追悼会も

なお、土葬が比較的遅くまで行われていた地域では、骨葬も多く実施されており、葬儀当日に納骨するために、葬儀前に火葬を持ってくることで、葬儀のプロセスを大きく変化させないための対応だったとされる。

さて葬儀に参列できない場合には、それぞれの場所での「哀悼会」「追悼会」「遥葬会」などと言われる会も、近代に入ると行われるようになる。例えば、日本全国規模で追悼会が行われたのは、多くの弟子をもった大学創始者、慶応義塾の福沢諭吉や早稲田大学の大隈重信である。

福沢諭吉は、1901年(明治34年)23日に三田の自宅で亡くなった。『福沢先生哀悼禄』によると、8日午後1時、自宅を出棺し、2時頃に麻布善福寺で葬儀を行い、大崎村の本願寺管理の墓地に埋葬された。この葬儀の同じ日に、全国各地で行われたのが追悼会である。

基本的には法要に弔辞がついた形態だ。同日行ったのは31カ所である。後日行った地域もあり、式場のほとんどは寺院で、法要の形態だった。その後、慶応義塾同窓による追悼会や学生による追悼会も行われた。

一方、大隈重信は、1922年(大正11年)110日、早稲田の大隈邸で亡くなった。葬儀は17日、日比谷公園で出雲大社教による神葬式で行われ、同日夕方、音羽の護国寺に埋葬された。葬儀当日、追悼会が23カ所で行われた。大隈が元勲であったことから、旧植民地の京城、本山、大連などでも行われ、大学本部では後日、追悼会も行っている(『早稲田大学学報』235236号)。

死者への供養をサポートすることが大切

このように、福沢諭吉にしろ、大隈重信にしろ、場所を変えてもその追悼の想いを共有する人々が集まったのだ。

以上、新型コロナ感染死者の遺族が、現状の事態に対して向き合うことに参考になるような民俗的対応について見てきたが、その時々の状況に応じてさまざまな工夫が凝らされていたことがわかる。また、このような事例をみても、現状の事態に対し、さまざまな工夫の余地があると思われる。

いったん減少した新型コロナ感染死者数も再び増加してきており、現状の死者に対する対応では、故人に向き合えない遺族がますます増えていくことが懸念される。

山田教授は「深い悲しみに陥っている遺族にとっては、少しでも通常の儀式に近づけていくことが必要です。それが死を受容することにつながりますので、近づけようとする実践のプロセスが重要なのです。結果的に何もできなかったとしても、プロセスにおける作業がひとつのグリーワークとなり、いくらかでも慰められていくのです」と指摘する。

そのプロセスに寄り添い、一緒にできることを考えていくことで、死者の供養をサポートしていくのは宗教者、葬儀社、火葬場などの葬祭事業者であり、葬祭事業者に課せられた課題でもあるといえよう。

 

『日本人と山の宗教』

JBpress(與那嶺 俊)

2020.9.14

 趣味やレジャーの場であるとともに信仰の対象でもある日本の山々。もっとも、かつては山頂を目指して登るのは当たり前ではなく、稜線から見える周囲の眺望に気を留めることさえなかった時代もあった。日本人はいつから山に関心を持ち、信仰の対象としたのか。

 日本の「山の宗教」は山林修行者を担い手として、人と山との境界領域である裾野(のちに里山)を足場に展開してきた。原始の山林信仰や大陸からの宗教的影響、中世王権の宗教政策、山林修行者と貴族や民の関わり、参詣や霊山信仰の広がり、スポーツやレジャーとしての登山の誕生や「帰る場所」としての山の言説──。

 白山、富士山、三輪山、立山、高野山・・・。日本の山々と山林寺院を舞台に、裾野から頂上まで、古代から現代まで千年にわたる山の宗教の歴史について、『日本人と山の宗教』を上梓した東京大学史料編纂所・菊地大樹准教授に話を聞いた。(聞き手:與那嶺俊・シードプランニング研究員)

裾野こそが山の聖性を認識する場だった

──山は現在の日本人にとって、登山やレジャーの場でありながら、宗教や信仰の対象でもあります。本書では、山の宗教は大陸伝来の仏教や各時代における政治や文化に影響されながら、長い時間をかけて、徐々に形成されてきたものであると語られています。

菊地大樹准教授(以下、菊地):原始時代から近現代まで5章にわたって、「長期持続的方法」(政治や制度に比べ、より長い時間をかけて変化する現象に目を向けた文化史のとらえ方)という千年単位で歴史をとらえる書き方で山の歴史を論じました。山の宗教の実態は、山と人との境界領域である裾野(里山)に見ることができます。その山と人の両者を結びつけてきたのが山林修行者なんです。

 古代の人々にとって、山の頂上ばかりが特別な場所ではありませんでした。むしろ、「裾野」こそ人がもっとも山の聖性を認識する場だったのです。

 奈良時代には、裾野は仏教に影響を受けた山林修行者たちの活動の場になります。例えば、同一の僧が大和(奈良県)三輪山の裾野に位置する山林寺院・大神寺で山林修行を実践し、都の平地寺院・東大寺で仏教叙述の体系を教学的に講じるといったこともありました。修行者たちが平地と山林を往復するようになっていったんですね。

 平安時代前期には地震や噴火などの自然災害が多発し、山や自然の状況を実際に目にしていた山林修行者たちに、平安の都市民たちが注目するようになりました。都良香(みやこのよしか:貞観年間に活躍した漢学者)の『富士山記』からは、貴族が地方霊山や山林修行者に関心をもっていたことがうかがえますし、彼らからもたらされた山の情報が、時にはかなりリアルに記されています。普段は都から長距離・長時間の旅に出かけることの難しかった貴族や都市民の期待を背負って、10世紀ごろには山林修行者が地方霊山の裾野に山林寺院、現代的にいうと「ベースキャンプ」を築きます。そして山林寺院を足場に、だんだん高い山、山の奥深くに進入し、その有り様を都市民に伝えるようになりました。

菊地:やがて鳥羽院政期(1129年~1156年)には、地方に成立してきたさまざまな霊山が、中央の大寺社との間で本末関係を結びます。鳥羽院は地方の山林寺院に仏像や堂舎を寄進し、一切経(仏教経典の全集)を配備するなど、積極的に山林修行者への支援を行いました。また受領層から地方における勧進聖や上人らの活動について報告を受けるなど、山の世界と新たな関係を結んでいったのです。

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白山、富士山、三輪山、立山、高野山・・・。日本の山々と山林寺院を舞台に、裾野から頂上まで、古代から現代まで千年にわたる山の宗教の歴史について描いた書籍

 この頃に全国的に広がっていった、例えば熊野への参詣では、「導くもの」である修験者と、「導かれるもの」である檀那(信者)を結びつけるネットワークができていきました。修験者と檀那それぞれが、山の宗教に関する記録(宗教的伝承を記録する縁起類や参詣の旅日記)を作成し、新たな引導・参詣のスタイルを生み出していきます。貴族・武士から民衆まで山林寺院への参詣が列島全体に浸透していきました。

実は時代によって変化してきた山の宗教

菊地:江戸時代、幕藩制社会という政治の枠組みの中で、それまでは管理・開発が十分に達しなかった「奥山」まで管理の手が伸びていきます。本書では加賀藩の「奥山」(立山・黒部の総称)を例に挙げました。

 山林修行者が一定の範囲内で活動している分には制限はありませんが、もしそれを越えて動けば奥山における違法行為を手引きしたと疑われかねない。それまでの山林修行はより自由な側面を持っていましたが、人の生活圏が広がるのに伴って、山の宗教も幕藩制という政治の仕組みの中に囲い込まれていきました。一方で山伏らの活動はますます活発になり、信者の分布する特定の地域(霞場:かすみば)への働きかけ(護符の配布や祈祷活動、地鎮祭や葬式の後の清め払い、竈祓いなど)を独占的に行うなど、山の宗教はますます民衆世界へ広がっていきます。

 明治期になると、「頂を極める」あるいは初めて頂上を征服する「初登頂」という新しい価値が西欧近代の文化・文明とともに入ってきて、登山が信仰からスポーツ・レジャーへと変化していきました。

 古代には後発であり、外来宗教であった「仏教」が山の宗教の歴史的展開にどう影響したのか、をしっかりとらえ直すことを意識しました。山の宗教に対する仏教の役割については、「基層信仰論」が長い間、繰り返し強調されてきました。「基層信仰論」とは、仏教が伝わってくる前にすでに山の宗教の本質はできていて、それは仏教の影響を受けつつも基層としては変わらず、一貫して現代まで続いてきたという考え方のことです。その本質的、基層的と考えられてきた部分を批判的にとらえ、山の宗教は歴史的に大きく変化してきたのだ、というのが本書のテーマです。

宗教の実践で重要な役割を担った山林修行者

──仏教伝来後、古代日本の山の神々は仏教体系の中に取り込まれていきました。逆に在来の宗教が外来の仏教を取り込むことは起きなかったのでしょうか。

菊地:本書では仏教を、大陸の文明が日本列島を圧倒し未開から文明化されていく、一つの表れとして分かりやすく説明しました。もちろん、実際には日本の宗教というのは「仏教」対「在来宗教」、「仏教」対「神道」という二項対立では理解できない複雑なものです。仏教も一度に入ってきて一気に在来の宗教を圧倒したわけではなく、非常に長い時間をかけて大陸から日本に浸透していきました。

 2001年(原書は1999年出版)にジョン・ダワーが出した『敗北を抱きしめて』という第二次世界対戦後のアメリカの日本占領政策についての歴史書があります。この本の原題は『Embracing Defeat』です。「Embrace」は抱きとめる、抱き合う、という意味で、征服者と被征服者が一方的な関係ではなく、占領軍も日本を抱きとめる、日本側も占領軍を抱きしめる。単なる政治史ではなく、一方が他方を圧倒するだけの単純な関係ではなかったという側面から戦後社会を活写していて、文化史的なとらえ方としてもとても参考になりました。

 山の宗教における在来の宗教に対する仏教の関係も、一方的なものや圧倒的なものではなく、在来の宗教が仏教を抱きしめ、仏教も在来の宗教を抱きとめながら、神仏習合の世界の中で山の宗教が展開してきた、というのが実態ではないでしょうか。

──山の宗教の担い手であった山林修行者や修験者は、どのような役割を果たしていたのでしょうか。

菊地:山林修行者は山と人の関係を取り結ぶ「仲介者」「媒介者」として重要な社会的役割を果たしていました。難しい教理を聞かせるだけではなく、自ら実践してみせることで、その姿に民衆が従っていく、というような存在だったのではないかと。近代では、宗教というのは理論あるいは内面的な信仰と考えられていますが、実は実践の中にも宗教そのものを読み込んでいくことが重要です。山林修行者はこれからの新しい宗教の見方を考えるうえでも、歴史的に大切な存在だと考えています。

──第五章では明治期の宣教師ウォルター・ウェストンの登山に触れていますが、キリスト教や西洋文明と日本の山の宗教の関わりを教えてください。

菊地:キリスト教の宣教師たちは、キリスト教の布教だけではなく、西洋の文明を日本に紹介し、日本の文化を西洋に紹介する役割も担っていました。例えば、宣教師は西洋文明の一つとして、登山をレジャーやスポーツとして紹介し、山に対する考え方を大きく変えていきました。また、彼らは探検家として積極的に山登りをし、山の麓の村や神社、お寺の姿を絵に描いたり、写真に撮ったり、あるいは文章の形で西洋に伝えていました。当時、彼らが山の宗教を「前近代の遅れた異教」と低く見てしまうのはやむを得なかったと思いますが、宗教家として彼らが観察した、前近代の伝統を色濃く残している明治期の民衆宗教の姿はもっと注目されてもいいのではないでしょうか。

現代社会における宗教の役割

──現代の日本社会における宗教の役割をどのようにお考えですか。

菊地:最近、前近代日本における「臨終行儀」(死ぬ間際の枕元で行われる宗教儀礼)について書かれた洋書1を書評しました。「死」と同時に「死にゆく人(こと)」に日本人がどう向き合ってきたのか、心のあり様や儀礼の方法が書かれています。

 この書籍にあるように、人々は常に死の恐怖を克服しようとし、宗教に永遠の救済を求めるということを千年も続けている。しかし、一つの問題が解決しても、そこからまた新たな不安が生まれてくる。つまり「臨終行儀」が完成したとしても、人々の「死の恐怖」がなくなるようには結局はいかないと。これが宗教の実態である、というんです。

1Jacqueline I. Stone, Right Thoughts at the Last Moment: Buddhism and Deathbed Practices in Early Medieval Japan, University of Hawaii Press2016

 現代の日本では、時に宗教テロ事件が起こり非常に不安な思いをすることもありますが、国家や社会と宗教の関係は比較的安定していて、「社会には宗教がある程度必要である」という合意がなされているのではないでしょうか。例えば、東日本大震災の際には宗教団体の活動に注目が集まりました。また末期医療やグリーフケアでは、宗教者が死にゆく人とともに死への向き合い方を考える、残された人と死を一緒に受け止める、といった形で一般の人と宗教が深く関わることもあります。

 宗教は決して前時代的なものではなく、近代科学や合理的な思考と常に対立するわけではありません。宗教を合理的にとらえることができれば、科学や合理性で説明できない、日常的な世界を超えるような宗教独特の性質も見えやすくなり、そこからもう一度日常性に回帰する回路も開かれてくるかもしれない。宗教は、合理性を土台とする近代社会を時には批判的に見ながらも、その中に社会的な役割を見いだしていく、そして近代の枠組みがとらえきれない隙間を埋めていく役目を担っているのではないでしょうか。

山に登る時には歴史の痕跡を探そう

──中世の日本史・宗教史研究者としての歩みと、今後の研究について教えてください。

菊地:子どもの頃は武者小路実篤『一休さん』という子ども向けの伝記や、NHK大河ドラマ『草燃える』(永井路子原作)などが好きでした。日本宗教史に進んだきっかけの一つは、中世史のゼミで鎌倉幕府の公的な歴史書『吾妻鏡』を読んだことです。この中に『法華経』を修行する聖の記事が出てきたんですね。正統的な文献資料の中にも、文字の記録を残さなかった民衆宗教の実態を探ることができるのではないか、これは面白いと思いました。1980年代の網野善彦をはじめとする社会史ブームにも影響を受けました。

 宗教学や仏教学ではやはり教理や哲学の側面が強く、文献研究が重要なのはこれからも変わらないと思います。そこに現地調査(フィールドワーク)のような文化人類学的な手法を取り入れると、描くことのできる歴史像ははるかに豊かになるでしょう。山の宗教の歴史研究においては、特別な解決や究極の悟りを声高に説かず、常に世俗の社会と密接に関わりながら実践を続けていく山林修行者の群像は、とても面白い素材になると思っています。

 山に登る時に、裾野の景色の中を急いで通り抜けてひたすら頂上を目指すのはもったいない。私の旅のスタイルはバイクツーリングですが、何の変哲もない道をトロトロと走りながらわずかな地形の変化やランドマーク、小さい歴史の痕跡を見出して楽しんでいます。いままでの山登りも、多くはこのようなツーリングのオプションの一つとして楽しんできました。山の世界を下から上までゆっくり味わい尽くしていただきたい、その一助として本書を利用していただければと思います。

(構成:添田愛沙)

神道の葬式が少ないのはなぜか

JBpress (玉川将人:SOBANI編集部)

2020.9.13

 

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                                神道のお葬式もあるにはあるが、数は少ない(写真:ロイター/アフロ)

 初詣に近くの神社にお参りするという方は多いでしょう。結婚式を神社で、という話もよく耳にします。しかしお葬式を神道式で、というのは非常に少数派です。なぜでしょうか。今回はその点を解説してみましょう。

教祖や開祖がいない神道

 まずは神道とはなにか、仏教とどのように関わりあって現代に至るのかをおさえておきましょう。

 神道は日本特有の宗教です。キリスト教のイエス、イスラム教のムハンマド、仏教の釈迦のような教祖や開祖が神道にはいませんし、『聖書』や『コーラン』『法華経』などの経典もありません。つまり、特定の象徴やよりどころをもたずに、自然崇拝や祖霊(先祖の霊)、また八百万の神などといいますが、そういった自然発生的ともいえる神々の観念に基づく信仰が神道の基盤です。仏教伝来よりも以前に日本人の文化・生活の中に浸透し、大切にされてきた宗教です。

 仏教が日本にやってきたのは6世紀半ばです。以降、神道と仏教は、どちらかがとちらかに取り込まれてしまうというようなことはなく、江戸時代に至るまで延々とバランスよく融合・共存して日本人の宗教性を支えてきました。これを「神仏習合」と呼びます。

 しかし、明治に入ると天皇を頂点とした神道を基盤にする近代国家が目指されたため(国家神道)、この神仏習合は明治新政府によって無理矢理に分離されます(神仏分離)。寺や仏像、経典を破壊する「廃仏毀釈」という黒い歴史が日本史に刻まれたのもこの時でした。国家神道は第二次世界大戦の終焉とともに廃止となりました。その後、神社や寺院はそれぞれに宗教法人となり今日に至ります。

神道は死を忌み嫌う

 神道では、死を忌み嫌います。お寺に墓地が併設されているのはよく見かけますが、神社に墓地はありません。これは神道が死を忌避することを顕著に表しています。また、神棚がある家で死者がでた場合は神棚を半紙で封じますし、喪が明けるまでは神社の境内に入るべきでないとされています。地域のお祭りへの参加も憚られます。

 死者の遺体を目の前にしたときに、私たちは愛惜と嫌悪という矛盾にさいなまれます。これまで大切に思っていた人への愛情や親しみがある反面、遺体に対する恐怖や嫌悪が私たちの中で共存してしまう。腐臭が漂ったり、伝染病を蔓延させたりと公衆衛生上の実際的な問題があることなので、これは日本人に限ったことではない人類共通の情緒反応と言えます。

 そして、人間の自然な情緒反応通りともいえますが神道は死を「穢れ」として避けます。ところが、仏教は死を穢れとして恐れたり避けたりすることはしません。仏教にとって死は、別の世界への転生(輪廻転生)だったり、極楽浄土への旅立ちだったりするからです。

 神道の中心的神様は天照大神(アマテラスオオミカミ)で、太陽を象徴します。その反動として太陽の光の届かない「闇」を恐れます。『古事記』や『日本書紀』などで死者の行きつく他界は、黄泉国(よみのくに、よもつくに)、常闇国(とこやみのくに)、根の国(ねのくに)などの暗黒の世界であり穢れた場所です。仏教の来世にきらびやかな極楽浄土があったりするのとはまさに正反対ですね。

 そのため、奈良時代に仏教が伝来してからというもの、人々の死生観のよりどころや死者供養の役割は仏教にゆだられたのです。「輪廻転生」や「浄土思想」の死後観、それに基づく教義や作法を仏教がすでに持ち合わせていたという点が活かされたといえます。

33年で、仏(ホトケ)は神(カミ)になる

 日本人は四十九日で仏(ホトケ)となり、三十三年で神(カミ)になると考えてきました。ここには、仏教と神道が手を取り合っている姿が、さらには中国の儒教や道教に見られる祖先崇拝の影響も見て取れます。外来の文化をハイブリッドするのが得意な日本人の民族性がよく表れている考え方といえるでしょう(「先祖を大切にする」という点は宗教性を超えた日本人の思想・文化ともいえます)。

 亡くなった人の霊は私たちのそばにいる。しかし初七日、四十九日、一周忌、三回忌と、時間をかけて何度も年忌供養をすることで、死の穢れは少しずつ浄化されると考え、三十三回忌を経て供養は完成。ついに祖霊はその村の氏神へと昇華していくのです。

 このことを示したのは日本民俗学の父である柳田国男でした。柳田は『先祖の話』の中でこうした日本人の宗教性を指すために「先祖教」ということばを用いたほどです。どのような宗教よりも先祖を大事にする日本人について、本書の中でこのように記しています。

 わたしがこの本の中で力を入れて説きたいと思ふ一つの点は、日本人の死後の観念、すなわち霊は永久に国土のうちに留まって、さう遠方へは行ってしまはないといふ信仰が、おそらくは世のはじめから、すくなくとも今日まで、可なり根強くまだ持ち続けられて居るといふことである。(柳田国男『先祖の話』)

 そして、宗教学者の藤井正雄は、柳田の『先祖の話』を引用しながら、日本人の来世には「近い来世」と「遠い来世」があるとし、その距離を、時間が分かつものとしています。

 新ボトケはこの現世とは近くの死者の国にいるだけに荒魂(あらみたま)であり、鎮魂を行うことがこの世に残されている人々の大事なつとめとなったのであり、仏教との習合が年忌追善の行事となったと考えられる。(藤井正雄「日本人の死生観と他界観」『神葬祭大辞典』所収)

 近い来世とは死後間もない霊が集まる穢れの多い場所で、仏教による供養が求められます。そして、時間をかけて浄化された祖霊は、清められた遠い来世に赴き、神道式の方法で祀られる。つまり、死者供養の役割が仏教と神道で分けられているのです。子孫たちによる法要や供養によって魂が浄化され、33年経つと位牌を処分してしまう習俗はいまでも見られます。

 また「遠い来世」とはいっても、その場所は村のお山だったりします。古い祖霊たちは山の高いところから私たちを見守ってくれているという信仰から、霊山やお山信仰が浸透し、山のふもとや中腹に神社が設けられているのです。

日本人の死生観は、仏教と神道が手を携えあってこそ成り立っているといえます。私たちは神社に初詣に行き、お祭りでは神社に祀られる神様を神輿に担いで里を練り歩きますが、この神社にいる神様は、私たちの古い古いご先祖様に他ならないのです。

 亡くなったばかりの死者の供養は仏教に、年月が経って浄化された祖霊は神道に。今でもあたりまえのようにあちこちに存在する仏教のお寺と神道の神社は、日本人にとってこのような役割分担・存在意義で共存しているわけです。

「神葬祭」が推奨された明治時代

 日本書紀にはイザナミノミコトの葬儀の模様がかかれています。古代においては、日本独自の葬送の儀礼が行われていました。しかし前章でみてきたように、奈良時代以降長らく、日本では仏教が葬儀を取り仕切ったわけです。

 江戸時代に入ると幕府の寺請制度(てらうけせいど)により、仏教による死者供養はさらに強固になります。寺請制度とは、キリスト教を弾圧するためにキリシタンでないことを寺院に証明するための制度で、庶民は必ずどこかの寺院の檀家にならなければなりませんでした。神職であっても、一般の人と同じように菩提寺を持たなければならなかったほどです。

 しかし、江戸時代も中期になると、本居宣長や平田篤胤らによる国学が隆盛し、日本古来の文化や精神性の基盤である神道が見直されるようになりました。ここで神道式の葬儀「神葬祭」が盛り上がってきたのです。これは仏教寺院にとっては死活問題で、両者で大きく対立が見られるようになりました。

 そして明治時代に入り、新政府が神道を基盤とした国家作りを進める中で、神葬祭はいっそう推奨されます。

神官が宗教行為に関与できなくなった理由

 1872年に神葬祭専用墓地として青山霊園が開設されましたが、これがいまの都立青山霊園のはじまりです。さらに、翌1873年には仏教の習俗に基づくものとして火葬が禁止されます。新政府は葬儀や供養の神式化をなんとしても推し進めたかったのです。しかし、神葬祭は庶民たちにはどうにもうまく普及せず、また火葬の禁止によって土地不足や衛生面でもさまざまな問題が生じたため、1875年に火葬は再び解禁されます。

 明治政府は、もともと江戸時代に敷かれていた寺請制度の機能を残したまま、信仰の対象を仏から神に移していくという都合のよい青写真を描いていましたが、実際には長い時間をかけて民衆の中にしみこんだ仏教と祖霊崇拝の結びつきの強さを、強引に神道一色にするには無理があり、大きな反発を招きました。

 加えて、近代国家の樹立のためには政教分離と信教の自由を国家の基本方針に盛り込むことが避けられず、政府は宗教政策の方針を大きく転換することとなり明治政府は「神道非宗教論」の立場をとります。政教分離の原則に従って神官は宗教行為である葬儀に今度は逆に関与できなくなり(ごく一部の神官を除く)、神葬祭の普及は挫折に終わります。

 そののち、第二次世界大戦後に神道が国家管理から離れて一宗教法人となったことにより、ようやくどの神官も葬儀に関わることが自由になりました。

 もともと伝統的に葬儀は仏教の役割が大きかったこと、しかし明治政府の推進により一度は神葬祭が推進されたこと、その神葬祭の推進も混乱の中、挫折を迎えたこと。これが神道のお葬式がゼロではないが、多くはない、という日本の近現代史的背景なのです。

【参考文献】

●加藤隆久 『神葬祭大辞典』 戎光祥出版

●安丸良夫 『神々の明治維新-神仏分離と廃仏毀釈-』 岩波書店

●小笠原弘道 「明治初期の神葬祭政策と民衆の動向

●金井重彦 「わが国における葬送儀礼の自由化の道すじ-幕末から大日本帝国憲法制定の時まで-

●中島隆広「国家神道とは何か」(出雲大社紫野教会WEBサイト)

 

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