天牛(紙切り虫)

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カテゴリ: 日本文化・歴史関係

990130 「国民の歴史」(西尾幹二著)-産経新聞社

<作品紹介>

 

「新しい歴史教科書をつくる会」会長が日本の歴史を通史的に辿り、「魏志倭人伝」は歴史資料に値しない、平安京の落日と中世ヨーロッパ、終戦の日など、テーマ別に具体的な疑問に焦点を絞り、率直かつストレートに著した論集。


【写真特集】消滅国家、満洲国の痕跡を求めて


JBpress
(文+写真:船尾 修/写真家)

2020.9.15

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1937年(昭和12年)に竣工した三越百貨店大連支店は大連駅からも近い連鎖街とは道路を挟んだ向かい側の旧常磐町にある。三越はよく知られているように日本の百貨店の元祖。5階建てで4階はレストランになっていた。戦後はソ連軍に接収された後に大連市に返還され、ロシア系の百貨店である秋林(チューリン)女店として使われたが、2016年にZARAという店舗に変わった。

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 ≪かつての日本の植民地の中でおそらく最も美しい都会であったにちがいない大連を、もう一度見たいかと尋ねられたら、彼は長い間ためらった後で、首を静かに横に振るだろう。見たくないのではない。見ることが不安なのである。≫

 という書き出しではじまる『アカシヤの大連』は、満洲・大連生まれの詩人で作家の清岡卓行の私小説だ。彼はこの初めての小説で1970年(昭和45年)度の芥川賞を受賞している。

 1922年(大正11年)に日本の租借地である大連で生まれた清岡は大連一中を卒業すると単身日本へ渡り、東京帝国大学仏文科に進む。しかし戦争が激しさを増した1945年(昭和20年)春の東京大空襲の直後、実家のある大連へ戻った。

 ≪大連の五月は、彼にとって五年ぶりのものであったが、こんなに素晴らしいものであったのかと、幼年時代や少年時代には意識してなかったその美しさに、彼はほとんど驚いていた。≫

 10万人が死亡し、100万人が罹災したといわれる310日の東京大空襲。食料はとっくの昔に配給制となっており、清岡に限らず都会に暮らす人たちはみな飢えていた。しかし大連へ戻ってくると、拍子抜けするほどそこには戦争の影などなく、喉から手が出るほど欲した米や肉や卵など食べるものはなんでも手に入った。酒も煙草も入手に困らない別天地だった。彼は毎日、昼ごろに起き、アカシヤの花の甘く芳しい香りを嗅ぎながら散歩し、6畳の自室にこもってレコードを聴いたり読書をしたりしてゆったりと過ごした。

宙ぶらりんの存在だった大連

 ただ、自分が何者であるのかという問いはずっと心の内に澱のように溜まっていた。戦後、清岡が文学の道へと進んだのは、おそらくその問いから彼自身が逃れられなかったからではないだろうか。それは、植民地が自分の故郷であるということへの葛藤である。

 ≪彼は、自分が日本の植民地である大連の一角にふるさとを感じているということに、なぜか引け目を覚えていた。・・・自分が大連の町に切なく感じているものは、主観的にはどんなに〔真実のふるさと〕であるとしても、客観的には〔にせのふるさと〕ということになるのかもしれないと思った。≫

大連は日本の租借地であった。日露戦争後の1905年(明治38年)にロシアの権益を引き継ぐ形で清国から租借地として譲り受けることになったのである。大連を含む地域は、関東都督府、関東州、関東局(関東庁)と名称を変えながらも、その後、実質的な日本の植民地として発展していくことになる。

 1932年(昭和7年)に満洲国が建国されると、そのときにはすでに清朝が滅亡していたこともあり、租借先は清国から満洲国へと改定された。つまりこの時期になると、大連のある関東州は日本が租借していたけれども、法的には本来は満洲国に属していたことになる。

 その満洲国において全権を握ったのは関東軍司令官であるが、関東軍司令官は関東州(庁)長官をも兼務することになっていた。こうして関東州はいつのまにか満洲国の一部のような扱いに変更されてしまったのである。日満一体化という流れの中で、関東州最大の都市である大連はまさに日本と満洲国をつなぐ媒体のような位置づけだった。

 日本でもなければ、満洲国でもない。朝鮮や台湾のように日本の植民地でもない。そうした宙ぶらりんの存在が、関東州であり、大連であったといえる。清岡の抱える葛藤は、大連生まれである自分の故郷はいったい日本なのか満洲なのか定義できない根無し草のようなあやふやさに端を発していたと推測されるのである。

 実際のところ、満洲国には国籍を規定する法律がなかった。五族協和が掲げられ、満洲人、漢人、蒙古人、朝鮮人、そして日本人が混じり合いながらも、彼らは「満州国人」ではなかった。本連載の「(5)溥儀が信じた偽りの復辟」でもすでに触れたことだが、満洲国が国家としての完成度は低かったとわたしが論じたのは、この国籍の問題もおおいに関係している。

 なぜ満洲国では国籍法がつくられなかったのだろうか。それは日本の国籍法が関係している。日本は二重国籍を認めていないから、そうするともし満洲国の国籍を選べばその人は日本国籍を失ってしまう。国際的に信用度の低い満州国人にわざわざ国籍を変更する日本人はほとんどいないだろう。

 満洲国には日本の省庁からたくさんの官僚が派遣されていたが、そうすると国籍という点で問題が表面化してしまう。満洲国が日本の傀儡国家であるがゆえに、国籍法を制定しまうと大きな矛盾が生まれてしまうのである。

「五族協和」「王道楽土」が満洲国をあらわすキャッチフレーズであり、日本人の多くはその言葉を信じ、疲弊する自分たちの暮らしをなんとか打破し、輝く未来への軌跡の先に満洲という存在を夢見たはずだ。日本政府も1936年(昭和11年)に「満洲開拓移民推進計画」を閣議決定して、20年間で500万人の日本人を移民させる計画を立てた。

 私は思うのだが、「よし、満洲で一旗あげるぞ!」と意気込んで満洲へ渡った人たちのうちいったいどれぐらいの人たちが世界の中での満洲の位置づけを正確に把握していたのだろうか。彼らにとって満洲という地は果たして外国であったのか、それとも日本であったのか。

「大連は夢の都」と公言した井上ひさし

 清岡の父親は満鉄の技師であった。彼が東京から大連の実家に戻ってきたとき、父親はすでに満鉄を退職しており、庭で植木いじりなどをしたり近所の人と碁や将棋をうったりと余生を楽しんでいた。自らが志望して満鉄に入ったのか、どこからか派遣されたのかはわからないが、父親は戦争の激しさが増すばかりの日本へ戻るつもりはなかったらしい。母親は召集されて戦地に赴いた清岡のふたりの兄のために毎日神棚に祈り、戦争を心から憎悪していたという。

もちろん百人いれば百通りの人生があるように、一概には決めつけることはできないが、清岡の家庭は大連という街の中でごく平均的な日本人の典型ではなかったかと思う。

 多くの日本人にとって大連という街は、都市計画に基づいた美しく頑強な洋風建築が建ち並び、水洗トイレや電話の自動交換機などまだ日本国内で整備されていないインフラがふつうにあるという先進都市であった。大連港は自由貿易港であるため外国製品が安価に購入できる。満洲を貫く鉄道、とりわけ超特急あじあ号の起点であり、ヨーロッパとも往来が可能だ。野心家たちにとってはまさに夢のような都であったことだろう。もし私がこの時代に生きていたならば、やはり同じように夢と希望を求めて大陸へ渡ったような気がする。

 小説家で劇作家の井上ひさしは大連生まれでもなければ、戦前の大連に滞在したこともないが、「大連は夢の都」と公言し、終戦前後の大連を舞台にした戯曲を何本も書いた。その代表的なものに、『連鎖街の人々』と『円生と志ん生』がある。これらの戯曲を書くために、井上は戦前の大連の写真や絵葉書を大量に蒐集して、『井上ひさしの大連』という本までまとめている。

 いったい大連の何が井上をそこまで駆り立てたのだろうか。単にノスタルジーを感じたためなのだろうか。『連鎖街の人々』ではソ連侵攻後の大連に暮らす人々の日常を描いていることから、おそらく短期間の間に日本人の手によって建設された「夢の先進都市」が戦争という歴史の大波に飲み込まれるように崩壊していくその「物語性」に強く惹かれたのではないかと私は推察している。滅びの美学というやつだろうか。

『円生と志ん生』の円生とは六代目三遊亭圓生のことであり、志ん生とは五代目古今亭志ん生のことである。ふたりとも実在の落語家だ。ふたりは満洲演芸協会の仕事で満洲へ赴いたものの、途中で終戦を迎えることになり日本へ帰国できなくなってしまった。当地で演芸会などを催しながら食いつなぎ、結局満洲では2年間を過ごすことになったのである。

 連鎖街というのは大連駅のすぐ近くにつくられた今でいうショッピングセンターで、連鎖商店街ともいい、約200店舗が軒を連ねた。1930年(昭和5年)にオープンし、道路に面して全面ガラス張りのショーウィンドウや、雨の日でも買い物ができるように天窓に明かり取りがついたアーケードがあった。

 当時は銀座や心斎橋などでもそのような店はまだ少なく、まさに国際都市・先進都市・大連の名に恥じないものであった。設計は中村與資平(よしへい)の弟子である宗像主一である。中村與資平は明治から昭和にかけて活躍した日本を代表する建築家のひとりで、朝鮮や満洲においても銀行や公共機関など多数の建築を手がけた。

都市対抗野球を席巻した大連チーム

 戦前の大連ではスポーツも盛んで、そのなかでも市民が最も熱狂したのは野球である。大連には、満鉄社員を中心にした「大連満洲倶楽部」と、その他の会社に所属している「大連実業団」という社会人野球の二強があり、両チームの対戦は「満洲の早慶戦」とも呼ばれた。

 現在の都市対抗野球大会が始まったのは戦前の1927年(昭和2年)のことだが、その記念すべき第1回大会では大連満洲倶楽部が優勝した。そして第2回大会は大連実業団が、第3回大会は再び大連満洲倶楽部が優勝したのである。両チームとも終戦によって消滅したが、それまで優勝3回、準優勝3回は満洲のチームによって成し遂げられた。

 大連満洲倶楽部は満鉄社員で構成されていた関係で、東京六大学などから有望な選手を獲得しやすかった。というのは、当時の満鉄といえば高給取りの代名詞だったからである。単に月給が高いだけでなく、遠隔地手当が充実し、住宅も提供されるなど、日本の企業としては破格の待遇であった。国策企業ではあるのだが、鉄道以外の多方面に事業を展開しており、文化活動やスポーツの振興にも力を入れていた。

 その後、1936年(昭和11年)に現在のプロ野球の前身となる日本職業野球連盟が発足してからは優秀な選手はプロに流れるようになり、また戦況が悪化するにつれ満鉄社員も召集されるようになったために、大連満洲倶楽部もよい成績を残すことができなくなっていく。

 余談だが、作家の清岡卓行は大の野球ファンであった。特に田部武雄という俊足の選手がお気に入りだった。そのため清岡は父の会社である満鉄を応援するのではなく、田部が所属していた大連実業団を応援していた。田部はその後、草創期の巨人軍に入団し、背番号13をつけた。ちなみに永久欠番になっている長嶋茂雄の背番号3を最初につけた選手が田部である。

 多くの日本人が憧れた国際都市にして先進都市の大連。終戦時には約60万人の人口のうち20万人を日本人が占めたといわれている。しかし、その栄華が永久に続くことはなかった。

 ≪戦争中におけるこれらの安楽について、その代償を支払うかのように、大連にいた日本人たちは、やがて敗戦後の引き揚げについて、財産や職業のほとんどすべてを無残にも失わなければならなくなるのである。≫

 清岡は小説の中でそう記している。井上ひさしが表現した「夢の都の大連」という言葉の真意は、もしかしたら「はかない夢・大連」という意味だったのかもしれない。

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1930年(昭和5年)に開業した連鎖商店街は当時としては最もモダンなショッピング・センターであった。3階建ての瀟洒な建物が16棟、連結されるように商店街を構成している。1階が商店や店舗で、2階と3階が住居として使われた。劇場や喫茶店、レストラン、公衆浴場など200店舗が連なっていた。

円生と志ん生が興行した映画館と劇場を兼ねた常盤座もこのなかにある。私はその建物の内部を見学させてもらったことがあるが、「昭和」を想起させる美しいタイルが細かく貼られた大きな柱が残っていた。連鎖街の多くは現在、奇跡的にほとんどの建物が残存しており実際に商店として使われているが、老朽化が進んでいるため近い将来に取り壊されるという噂である。

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真宗大谷派(東本願寺系)は他の仏教教団と同じく1904年(明治37年)の日露戦争において初めて満洲へ従軍布教使を送った。1910年(明治43年)には僧侶の新田神量を大連に派遣し、別院創立事務所を開設させた。この東本願寺大連別院は1930年(昭和5年)ごろに竣工したと思われる。満洲に進出した仏教教団の多くは満洲国が建国されて以降、積極的に国策に協力する姿勢を取った。3階建てのこの建物は現在、大連京劇院として使用されている。

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大連中学校は1918年(大正7年)に関東州で2番目の中学校として開校した。その後、大連第一中学校となる。芥川賞作家の清岡卓行は同校の出身。他に芸術関係の卒業生として、五味川純平や山田洋二らがいる。大連中学校が建てられた旧・伏見台一帯は文教地区として教育機関が集中していたところで、他に大連羽衣高等女学校、南満州工業専門学校、伏見台尋常小学校などがあり、それらの建物の多くは現在も残存している。

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大連南郊の老虎灘は断崖が続く海岸の景勝地である。海を見下ろすその高台の一角に、名古屋城を彷彿とさせる木造の日本建築がある。屋根には「しゃちほこ」が載っている。当時、一方亭と呼ばれた高級料亭で、満洲国建国の1932年(昭和7年)に建てられた。村上もとか作の『龍 RON』は戦前を舞台にした人気漫画だが、主人公の龍の叔母・小鈴が経営する料亭で甘粕正彦らが密談するシーンがあり、一方亭をイメージしたものと考えられている。

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かつて大連の逢坂町と呼ばれていた場所に遊郭があった。戦前の1930年(昭和5年)に発行された『全国遊郭案内』によると、「大連市逢坂町遊廓、明冶四十年に料理店の名目で始まる。店は七十軒もあり芸娼妓九百人の内二枚鑑札が四百人、娼妓は五百人、娼妓内朝鮮人は百五十人で日本人娼妓は九州、四国の女が多い。」と記されている。満洲へ渡る日本人は男性のほうが圧倒的に多かったため遊郭などの花街も当然必要とされたのだろう。現在も狭い通り沿いに当時の建物が残っており、集合住宅として使用されている。

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1912年(大正元年)に建立された聖徳太子堂は現在の中山公園内にある。日本には、大工や左官、建具屋、畳屋、石工などの職人が聖徳太子を祀る「太子講」というものがあり、江戸時代には特に盛んに行われた。仏教を保護した聖徳太子は法隆寺などの寺院を建立する際に職人を大事にしたといわれており、その故事にちなむ行事として現代にも継承されているのである。関東州が日本の租借地になって以降、建設ブームに沸く中心都市の大連にはたくさんの職工たちが押し寄せ、太子講という信仰もそれに伴って持ち込まれることになった。

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1936年(昭和11年)に竣工した大連放送局(JQAK)の社屋は美しい曲線に彩られたアールデコ調の建築であった。放送局自体は1925年(大正14年)に開設されたが、満洲電電が設立されてからは飛躍的に視聴者も増えていった。現在もここには大連広播電視中心という放送局が置かれているが、本社ビルは新しく建設された高層ビルのほうに移っている。

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三越の大連進出は早く、社史によると1910年(明治43年)にはすでに三越呉服店が大連出張所を構えている。現在のような3階建ての建物が完成したのは1927年(昭和2年)になってから。設計者は中村與資平と弟子の宗像主一。施工は清水組。三越呉服店はその後、1937年(昭和12年)に大連駅近くの連鎖商店街の前に三越百貨店大連支店ができた際に、そこに統合された。現在は、大連銀行中山支行として使われている。

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大連在住の日本人の氏神として、南山の北麓に1907年(明治40年)大連神社が創建された。祭神は天照皇大神や大国主命などである。後に日清日露戦争時の戦没者も合祀したため、「外地の靖国神社」としても機能した。終戦時にはここにもソ連兵が侵攻してきたが、神職らが機転を利かせて雅楽などを披露するとソ連軍の間で評判となり破壊は免れたという。1947年(昭和22年)に水野久直宮司が御神体と宝剣を隠して日本へ帰国、福岡市の筥崎宮に仮安置された後、水野宮司が赴任した山口県下関市の赤間神宮境内に御神体を運び、境内社として大連神社を祀ることになった。大連にあった本殿は取り壊され、現在は跡地に解放小学校が建っている。

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大名はなぜ荒くれ者の悪党を大量に雇ったのか

JBpress(平山 優)

2020.9.11

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                               (写真はイメージです/Pixabay


 ドラマや小説、漫画に登場し、変幻自在な忍術を繰り出す戦国時代の「忍び」(忍者)。これまで忍びはフィクションの中だけの存在と思われていたが、断片的に残された史料から、忍びは実在し、戦国時代の合戦においてきわめて重要な役割を担っていたことがわかってきた。忍びとは一体、何者だったのか? 気鋭の歴史学者、平山優氏が忍びの知られざる実態を明らかにする。(JBpress

(*)本記事は『戦国の忍び』(平山優著、KADOKAWA)から一部を抜粋・再編集したものです。

「忍び」抜きの戦いは考えられなかった

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                                                              『戦国の忍び』(平山優著、KADOKAWA

 戦国期は、「忍び」の数が、日本史上最も多かった時代であることは間違いない。それは、いうまでもなく戦乱の時代を勝ち抜くためにも、彼らの存在が必要不可欠だったからである。

 戦国期の大名や国衆らは、忍びを、若党・悴者(かせもの)などの下級の侍として、あるいは足軽として大量に雇用し、合戦に際しては、彼らのアウトローとしての技量を存分に発揮させ、味方を勝利に導く努力を怠らなかった。

 忍びとして活動する者たちの多くは、悪党(山賊・海賊・夜討・強盗)の出身で、武家からは蔑視され、「悪党風情」などと呼ばれていた如く、低く見られがちであったようだが、戦争に際しては、彼ら抜きでの戦いは考えられず、その意味では実に頼りになる連中だったのである。

彼らの活動は、敵地に潜入し、情報を探索したり、偵察をして味方の作戦を優位にすること、最前線(境目)にあって、草、伏、かまりなど(草に伏して敵の様子を探ったり待ち伏せしたりする伏兵としての活動)を行い、敵兵や使者、荷駄を運ぶ陣夫などを殺害、生け捕りにし、敵の村町での放火や殺害、略奪も頻繁であった。敵兵を一回の襲撃で殺害できるのは、一人、二人の場合が多かったが、それが数か月に及べば、その累計は数百人にも及ぶことがあり、通常の会戦なみの死傷者を敵方に与えることとなった。

また、使者を捕縛したり、殺害して密書を奪い取ることで、敵情を知る重要なきっかけともなった。また、夜間に敵の城砦や陣所に迫ることで、たとえ乗っ取りや放火などができなくても、敵を常に緊張させ、疲弊させることは十分に可能であり、かつ効果的だった。

 史料をみていくと、在城衆、在番衆は、昼よりも夜の警固に注意を向けており、日夜心身ともに休まる機会がなかったのではないか、と想像されるほどである。昼間の敵軍接近は、視認できるし、情報も入ってきやすいので、対応することができる。だが、夜間の忍びの襲撃は、闇に紛れているので、視認も困難であり、いつ襲われるか予想がつかないため、常に気を配らねばならず、気苦労が絶えなかったことであろう。

 こうしてみると、戦国期は派手な合戦ばかりがクローズアップされて、あまり注目されないが、敵味方相互が、忍びを放ち、彼らによる待ち伏せ、夜討などがきっかけで発生していた、日常の小競り合いもまた、その死傷者を累計していけば、実に大きな被害を与え続けていたと考えるべきではなかろうか。戦国期の戦争とは、昼の合戦と、夜の忍び合戦の総体だったのである。

なぜ悪党を忍びとして雇ったのか

 悪党を忍びとして雇うことの意味について、戦国大名や国衆の側から捉えると、悪党を雇えば雇うほど、野放し状態であった彼らを管理下に置くことができ、犯罪発生率を下げることが期待されていたと考えられる。あとは、被官化の誘いに応じない、残る悪党対策を講じればよいわけである。そして、その悪党対策は、村町からの密告奨励と、忍びたちによる摘発、大名領主による追捕(ついぶ)という方法だった。悪党には、悪党をぶつけることで、問題を解決するのが、戦国大名のやり方となった。

 このように、悪党を編成することで、大名は領国内の治安維持と安寧を実現しようとしていたとみられる。悪党たちは、内に潜み、悪事を働く、彼らの仲間に入っていない悪党たちを、その道に精通しているがゆえに、武士たちでは困難だった探索、摘発を実現しえた。そして、悪党たちを捕え、処刑することにより、大名領国の内の安全維持に貢献していたのである。あるいは、その過程で、降参したり、帰順を申し出た悪党を、大名の許可を得て、新たに仲間に加えたこともあるかも知れない。また、戦時以外は国境に潜み、敵地からの潜入者の摘発にも、大いに寄与したのであった。

戦国大名にとって、悪党を忍びとして雇用し、足軽に編成したことで、外に向けての軍事力強化に、内には悪党の減少と、彼らを使った犯罪摘発とを同時に可能にする意味があったといえるだろう。

忍びを通じて「夜」の世界の規制に

 そして、戦国大名は、悪党を支配下に編成することで、「昼」の支配から、「夜」の支配に大きく手を伸ばした権力ということができるかもしれない。

 それまでの権力は、「夜」を支配するアウトローたちを、武士が追捕するという形態を維持してきた。それゆえに、「夜」の世界に精通する彼らを、容易に捕捉できず、治安維持の成果もなかなか挙がらなかった。だが、戦国大名は、悪党たちを忍びとして召し抱えることで、彼らを通じて「夜」の世界の規制に乗り出した本格的な政治権力だったといえるのではなかろうか。

 この方向性は、江戸幕府にも引き継がれていった。江戸時代、江戸の市中で活動し、犯罪者の摘発に当たっていた「目明し」などがそれに相当するだろう。彼らは、同心や与力配下の雇足軽、手附、手代、小者などであったが、同心を助け、犯罪捜査に邁進する彼らは、実は元犯罪者、無宿人だった。彼らは、捕縛された後に犯罪を悔い、仲間を裏切って訴人をしたり、あるいは密告をして罪一等を減じられた者たちが多かったらしい。これは、戦国大名が悪党たちを、その配下に迎え入れた契機の一つとそっくりである。

 江戸幕府は、犯罪者摘発のために目こぼしをして、町方同心・与力の配下として活動させていた目明したちが、再び悪事を働いたり、町人たちに迷惑をかけ、顰蹙を買う事態に最後まで悩まされている。悪をもって悪を制す、という戦国以来のやり方は、うまく機能すればよいが、そうでなければ、政治権力にとってマイナスに働くことにも繋がったといえよう。

 

【写真特集】消滅国家、満洲国の痕跡を求めて

JBpress(文+写真:船尾 修/写真家)

2020.9.8

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1908年(明治41年)に大連のこの場所に置かれた満鉄本社は現在、瀋陽鉄路局大連分局として使用されている。もともとは日露戦争前にロシアが建てて商業学校として使われていた建物。大連満鉄旧蹟陳列館として公開された時期もあったが、私が訪れた2017年は事前予約にかぎって内部の見学はできた。

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 満洲国にはいったいどれぐらいの数の日本人が在住していたのだろうか。実はこの問いに対する答えはなかなか難しく、正確な数値を出すことはできない。外務省の「満洲開拓史」によると、終戦時の在満邦人は155万人。満蒙同胞援護会の「満洲国史・上」では終戦翌年の引き揚げ時において136万人という数字が著されているので、公式の在住者数は200万人未満といったところだろう。

 1940年(昭和15年)の満洲国国務院による国勢調査では、約4101万人の国民のうち、日本人はその5.2パーセントの213万人ということになっている。ややこしいのは、この数字には131万人の朝鮮人・台湾人が含まれていることだ。なぜならその時点で朝鮮半島と台湾は日本の植民地になっていたから、朝鮮人も台湾人も「日本人」にカウントされたからである。ということはその数字を引いた82万人が日本人(内地人)の実数ということになる。

 しかしこの数字には軍人やその関係者は含まれておらず、また租借地である関東州における人口は入っていない。この他、満洲へは一獲千金を夢見て渡航してきた人も少なくないのだが、すべての人が成功したわけではなく、失敗して流浪の民になったり日本へ帰国した人も多かったわけで、人口は流動が激しかった。そもそも定住していない人の数はなかなか表面には出てこない。

 細かい数字はわからないが、それでも少なくとも数百万人単位の日本人が実際に満洲へ渡航したことは間違いないだろう。日本が日露戦争に勝利し、ポーツマス講和条約が結ばれたのは1905年(明治38年)のことだが、早くもその年に大阪と大連を結ぶ定期航路が就航している。神戸と門司を経由する航路で、大阪商船によって運行された。この日満連絡船はその後、満洲へ渡る日本人が増えるにつれて増便され、最盛期には毎日運航された。また、鹿児島や長崎から大連へ往復する便も就航するようになる。

 大連のすぐ南にある旅順がその地政学的な位置からロシアにとっても日本にとっても軍港としての機能が重視されて発展していったように、大連は良港をもつがゆえに満洲における海運を一手に担うという点で街の発展は約束されたも同然だった。

 現在は人口が600万人という大都会の大連だが、しかし当時は数万人程度の小さな街に過ぎなかった。日露戦争前にはロシアがこの地を清朝から租借しており、ロシアは不凍港である大連を足掛かりにして日本や南方への進出を目論んでいた。大連という地名はロシア語で「遠方」を意味する「ダーリニー」から来ている。日本がこの地を占領後、そのロシア名を漢字に置き換え「大連」と呼んだのはおもしろい。

ロシアはすでにこの大連をヨーロッパ風の近代都市にするべく都市計画を策定して建設に着手したばかりだった。その途上で支配者が日本に移り変わったのである。日本がそのロシアが遺してくれた基盤をそのまま受け継ぐことができたのは、その後の街の建設を効率よく短時間でやり遂げるという意味では幸運だったといえる。

満洲国の経済の舵取りを行った国策会社、満鉄

 南満洲鉄道株式会社(満鉄)が誕生したのは翌1906年(明治39年)のこと。日露戦争の勝利によってロシアから得た権益のひとつに大連と長春を結ぶ鉄道があるが、その経営を担うというのが表向きの理由である。日本政府が資本金の半分を拠出していることから、満鉄は半官半民の国策会社であった。

 現代であれば第3セクターということになるだろうが、満鉄は一般の会社とは一線を画した性格を持っていた。設立に際しての初代委員長に、当時台湾総督であった児玉源太郎・陸軍大将を任命していることからもそれは読み取れるかもしれない。初代満鉄総裁となった後藤新平は児玉の部下にあたり、台湾総督府では民生長官を務めていた。

 こうした人事から見ても、日本政府は満洲を、やがて台湾と同じような形で植民地として経営していく心積もりであったといえるだろう。連載(3)(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/61654)ですでに述べたように、日本は鉄道そのものだけではなく、清国に対して「鉄道附属地」の開発と運営の権利を認めさせていた。鉄道附属地に関東軍兵士が駐屯した事実を見てもわかるように、ここは清国の法律が及ばない治外法権地帯であり、実質的には飛び地の植民地だったといえるだろう。

 鉄道附属地を開発するとはどういうことかというと、それはそこに日本のミニチュアを造成する作業といえるかもしれない。経済の大動脈である鉄道の沿線にいくつもの日本のミニチュアを築き上げ、それらを連結させることによって最終的に満洲の地を支配していくという構想である。そしてその鉄道附属地の開発・運営を担うことになった組織が満鉄であるといえるだろう。

 関東軍がその軍事力を背景に満洲の実質的な統治者として君臨したのに対して、満鉄は行政全般を担う関東都督府(のちの関東州)と肩を並べる形で経済の舵取りを行った。日本は戦後、官民財が一体となって経済発展をリードしてきたが、そのような一種の統制経済の原型を満洲に求めることができるのかもしれない。

鉄道なくして経済発展は不可能だった

 現代ではトラックや飛行機に物流の主役の座を譲った感があるが、かつて鉄道は流通の王様であった。経済を飛躍的に発展させるためには、まず生産した物資を大量に運搬しなくてはならない。消費はその後についてくる。自動車というものがまだ一般的ではなかった戦前において、鉄道なくして経済発展は不可能な話であった。

 それを端的に示しているのが、プロ野球のチーム名である。かつて存在した球団名を思い出してほしい。国鉄スワローズ、阪急ブレーブス、南海ホークス、近鉄バファローズ、西鉄ライオンズ・・・、懐かしい昭和の響きを持つこれらの球団の親会社は鉄道会社であった。高度成長期にある日本の経済の索引者として、鉄道会社はまさに花形であったのだ。

 プロ野球に限らずプロ・スポーツのチームを支える企業というのは、その時代を象徴するような存在。これ以上イメージアップをはかることのできる広告はめったにないだろう。現在のプロ野球球団を見るとIT関連の企業が多いこともまさに時代を象徴しているといえるだろう。

話は少しそれるが、私は「満鉄」という名前を中学生のころから知っていた。当時、私は「てっちゃん」(鉄道マニア)の駆け出しで、珍しい乗車券を集めたり、SLを撮影するために遠出したりしていたのだが、何かの雑誌に掲載された「あじあ号」の写真を見た記憶がある。「あじあ号」は満鉄によって戦前に開発され、実際に運行された超特急。最高時速は130キロ。しかも全車両が空調されていた。当時、日本国内でも全車両が空調されている列車は運行されていなかった。新幹線と同じスピードを出せる列車が戦前すでに日本人の手で実用化されていたという事実は少年にとっても衝撃だった。

 満洲国の取材を開始して間もなく、その「あじあ号」が大連の機関庫に保存されていることを耳にした。これは絶対に撮影しなくてはいけない、歴史の貴重な生証人だということで、いろいろな人に聞き込みを行った結果、「あじあ号」はすでに大連にはなく、瀋陽郊外の蘇家屯というところに保管されていることがわかった。

 ところが、訪ねた蘇家屯の鉄路博物館はしばらく休館中とのことで、今後も一般公開されるのはいつになるかわからないという。当局に何度掛け合っても見学の許可が出ない。中国ではこういうことはよくあるらしいのだが、許可を出さない理由もわからない。最終的に瀋陽在住のある方のご尽力で、見学はさせてもらえることになったのだが、写真撮影はいっさい許可されなかった。

 巨大な体育館のような屋根付きの建物内には数十両の蒸気機関車がずらりと並べて格納されており、いかにも中国らしいスケール感なのだが、そのなかでも「あじあ号」を索引した「パシナ」型蒸気機関車の存在感は別格だった。きれいに塗装し直された滑らかな流線型のボディは惚れ惚れするほど美しい。「あじあ号」は2両あって、傍らの説明文によると、1両は川崎車両(現、川崎重工)の神戸工場で、もう1両は大連の工場で組み立てられたとある。どちらも1934年の製造で、1981年前後まで現役で走っていたという。

 パシナ型蒸気機関車は1934年(昭和9年)に製造が開始され、1943年(昭和18年)に製造中止されるまで計12両つくられたことがわかっている。戦後、中国当局によって何度か運行が復活され、1981年(昭和56年)前後まで実際に走行していたという。

今のトヨタ以上に巨大な会社だった

 さて満鉄の話に戻そう。満鉄は「あじあ号」に代表される鉄道の運営に関わっていたが、事業の内容はそれだけではなかった。関東州や鉄道附属地における都市計画すべてに関わっていたといってもよいだろう。港湾や上下水道、電力ガスといったインフラの整備はもちろんのこと、病院、学校、図書館、ホテル、住宅建設といった人々の暮らしに直結する事業、炭坑の採掘や製鉄所など重工業の経営、農作物の輸出など多岐にわたっていた。関連企業も多く、一大コンツェルンを形成していたといえるだろう。

 さらには鉄道附属地における公費という名の徴税業務まで行うなど、行政そのものの業務も含まれていた。ただ、本業の鉄道経営とは異なり、鉄道附属地の経営はずっと大幅な赤字続きであった。それにもかかわらず1937年(昭和12年)に鉄道附属地が廃止されるまで経営を続けたのは、それが国策だったからであり、日本にとって満洲を経営していくうえで必要不可欠な事業であったからに他ならない。

 読者のみなさんの周囲にも、満洲生まれだったり、親が満洲帰りだったりとなんらかの形で満洲と関わりのある人は少なくないと思うが、「父親が満鉄だったんだよね」というような話を私もよく耳にした。最初のうちは、鉄道会社がどうしてそんなにたくさんの労働者を雇っていたのだろうと不思議に思っていたのだが、満鉄のことを調べていくうちに、純粋な鉄道部門の仕事は一部分であることを知り、なるほどと合点した次第である。

 終戦直前には、満鉄社員の総数は約40万人にもおよんだ。この数字にはもちろん日本人以外も含まれているが、日本から家族で赴任した人や関連業者の人たちを含めると、実際に満鉄になんらかの形で関わっていた日本人の総数はかなりの数にのぼるだろう。社員のなかには日本から官僚が出向という形で赴任するケースも少なくなかった。

 単純に比較するのは難しいが、名実ともに日本最大の会社であるトヨタ自動車は子会社を含めた連結従業員数が約36万人強といわれている。しかし満鉄社員数はそれよりも多かったわけで、満洲における満鉄の存在がいかに大きなものだったか容易に想像することができるだろう。

どことなく日本の街に似ている大連

 本社が大連に置かれたこともあり、満鉄に関係する建築物は枚挙にいとまない。このうち最も重要だったのは大連港関連の施設だろう。日本からのフェリーが発着するターミナルという位置づけだけではなく、物流の拠点として大連港はまさに満洲の発展のカギを握っていたからである。そして事実、満洲国が建国された1932年(昭和7年)には、満洲国の貿易総額のうち実に75パーセントを大連港が担っていた。

 その大連の位置づけは、戦後75年たった現在でもさほど変わっていないと思われる。中国東北部の遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省において、日本と最も緊密な経済関係を結んでいる都市は大連であるからだ。大連には現在約1500社の日本企業が進出し、在留邦人は6000人を数える。また大連港の輸出入において最大の取引先は日本である。

 実際に街を歩いてみると感じることだが、大連はどことなく日本の街に似ている。どういう点が似ているのかうまく言葉で表すことができないのがもどかしいのだが、おそらくその感覚は大連が日本からの玄関口であり続けたことと無縁ではない気がする。

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大連港の旅客ターミナル正面に建つ大きな建物は1926年に竣工された大連埠頭事務所ビル。当時はこの建築物が大連一の高さを誇っており、その屋上から見渡す光景が大連の典型的な眺めということになっていた。日本から満洲へ夢と希望を抱いてフェリーでやってきた人は、ターミナルを出て最初に目にした光景がこのビルであっただろう。現在は大連港務局が入っている。

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日本からのフェリーが発着した第2埠頭旅客ターミナルは出入り口が半円状の特徴的なデザインであったが、現在は改築されて当時の名残を見ることはできない。また、一度に5000人も収容できたといわれている2階待合室のある空間には現在商業施設が入っている。しかし天井を見上げてみると、太陽光を取り入れる明かり取りが昔のままの状態で今も使用されているのがわかる。

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満鉄は1906年(明治39年)に創立されたときは本社を東京に置いていたが、翌年になって大連へ移した。そのときに社屋として使ったのがこの建物で、もともとはロシアが東清鉄道ダーリニー事務所を置いていた。1908年(明治41年)に満鉄が本社を移転した後は、一時期ヤマトホテルとしても使われていた時期があった。この建物周辺はロシアが最初に開発したためその時代の古い建築物が多数残っており、現在でも「ロシア人街」として市民に親しまれている。

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満洲一の格式を誇ったという大連ヤマトホテルは1914年(大正3年)に竣工された。日本人が満洲に建てた代表的な建築物のひとつである。このホテルが建つ中山広場はかつて大連大広場と呼ばれた街の中心地で、大連市役所、朝鮮銀行、大連警察署、東洋拓殖などのビルが並んでおり、これらはいまも現存している。ヤマトホテルは現在、大連賓館として営業しており宿泊も可能だ。満洲の残り香を嗅ぎたい人はぜひ泊まってみたらよいだろう。

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1937年(昭和12年)に満鉄の太田宗太郎によって設計された大連駅は、日本の租借地である関東州から満洲国へ渡るゲートウェイだった。上野駅を模して建築された駅舎は1階と2階が乗車と降車で隔てられており、まるで空港ターミナルのような斬新なデザインであった。ちなみに現在の上野駅は2代目で、1932年(昭和7年)に酒見佐市らの設計で完成している。

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満鉄は関東州のみならず満洲における鉄道附属地において都市計画を担った。上下水道の敷設も当然業務の一部であった。私は当時発行された古地図を頼りに満洲各地を歩いて建築物を探したが、ときおり当時の古いマンホールを見つけることもあった。満鉄の社章は頭文字の「M」とレールの断面を表す「I」を組み合わせたもの。マンホールの写真を興奮しながら撮っていると、往来する人々に何事かという顔をされることしばしばであった。


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満鉄調査部ビル。満鉄創立と共に設置された調査部は当初は純粋に満洲の地理などの調査を行っていたが、やがて政策立案そのものに大きく関わるようになり、次第にシンクタンクとしての機能を強めていった。特に満洲国が成立した以降は、官僚主導の国家統制を基盤にした社会構築を主導し、これは戦後の日本の国家モデルの原型になったといわれている。しかし満洲国末期にはその先進的な思想ゆえに関東軍の支配方法と対立するようになり、2度にわたって憲兵隊により検挙され次第に力を弱めていった。

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1919年(大正8年)に建造された世帯用の満鉄社宅である「関東館」。4階建てで「コの字」型の建築は当時さぞかしモダンだったと思われる。満鉄に優秀な社員が集まったのは、ひとつにその待遇が破格によかったためであるとも言われている。給与には特別手当が増額され、異国の地ゆえに住宅も提供された。当然のことながら幹部には一戸建てが提供されたが、たとえアパートであっても全館暖房システムが導入されるなど、当時の内地の状況に比べると格段に生活しやすかった。

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満鉄が設立した大連図書館は一般人が利用することもできたが、基本的には満鉄が情報収集のために利用する目的でつくられた。現在のようにインターネットがない時代、重要な資料や情報は図書館が所蔵していたためである。このため満鉄は各地に図書館を開設し、館員を外国に留学させるなどした。それだけ「情報」というものを重視したのである。やがて図書館はその後、満鉄調査部の一組織に組み込まれていくことになった。

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1912年(大正元年)に開校した南満州工業学校の校舎が完成したのは翌々年のこと。設計は満鉄建築係りの横井謙介が行った。その後1922年(大正11年)には南満州工業専門学校に改組された。満鉄が事業を拡大するにつれて専門的知識を持つ人材が必要になったため、満鉄は自前で技術者を養成する必要があったのである。他に南満医学堂では医師を、満洲教育専門学校では教員の養成を行った。

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黒竜江省西部の斉斉哈爾(チチハル)駅の駅舎は1936年(昭和11年)に満鉄によって竣工された。満鉄そのものは大連と長春を結ぶ路線であったが、その後にロシアと中国が共同経営していた東清鉄道(その後、北満鉄路)を満洲国が買収して満鉄に経営を委託することになった。このため満洲における鉄道は事実上すべて満鉄の支配下に置かれることになった。

 

 

思わず誰かに話したくなる鉄道なるほど雑学

PRESIDENT Online (川島令三:鉄道アナリスト)

2020.9.4

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狭軌レールで走る旧国鉄C12形蒸気機関車(真岡鐵道) Photo:PIXTA


鉄道アナリスト・川島令三氏の新刊書『思わず誰かに話したくなる鉄道なるほど雑学』の中から、鉄道に関するディープなウンチクをご紹介。
前回に続き今回もレール幅のお話です。日本の鉄道のゲージ(軌間)に、なぜ欧米よりも狭い「狭軌」がわざわざ採用されたのか。その後、国鉄は狭軌ゆえの車両の狭さという課題をどう克服していったのか。レール幅にまつわる興味深い歴史をお伝えします。

英国商人にしてやられ、日本最初の鉄道は中古品

 多くの鉄道建設に関与した大隈重信公が、イギリス人からゲージ(軌間)をどうするかと聞かれたとき、ゲージの意味がわからず、諸外国ではどうなっているのかと聞くと、日本のような川や山が多く平地が少ないところでは、南アフリカなどに敷設されている3フィート6インチ(1067mm)が適当と勧められた。

 当時、3フィート6インチは南アフリカで採用されていたためにケープゲージと呼ばれていた。

 勧めたイギリス人とはHoratio Nelson Lay(以下レイ)という人物だった。レイは建設資材の購入やイギリス人の鉄道技師の人選、イギリスで日本の鉄道建設の公債の発行などをするといった、いわゆる“お雇い外国人”だった。

 しかし、したたかな商人でもあり、大隈公にケープゲージを勧めたのは、同じケープゲージを採用していたインドの中古資材を購入して、その利ザヤで大儲けをたくらんだためだった。

 日本初代の鉄道建設技師長のエドモンド・モレルに、ケープゲージを導入することが承認されたと伝え、即刻インドの中古資材や機関車、客車、貨車などを発注した。

明治271894)年に日清戦争が起こり、兵員の鉄道輸送力の不足が明らかになった。ボギー台車の改良を進め、明治411908)年に車体幅を2464mmに拡幅した客車、さらに43年に幅2591mmの客車が登場した。

 製造技術の発展で大正81919)年には車体幅2794mmの客車が試作され、翌9年には国鉄はメートル法を採用して、ついにヨーロッパ並みの2800mm幅の客車を「大形客車」として登場させるようになった。

 これで広軌化をする必要はなくなったが、大正31914)年の広軌鉄道改築取調委員会では、広軌であれば最大3581mm幅の車両ができるとした。ようは、狭軌で幅2800mmができるのなら広軌では3581mmまで拡大できるとしたのである。

新幹線の車体幅はしっかり安定の3380mm

 広軌での3581mmという車体幅は、アメリカの大陸横断鉄道の客車の幅が3010mmだったから、これより50cm以上広くしている。しかし、幅3581mmの客車を走らせるためには、軌道中心間隔を拡げる必要があり、路盤やトンネル、橋梁を造り直さなくてはならないということでお蔵入りしてしまった。

 東京―下関を結ぶ戦前の弾丸列車計画では、最高速度200キロを目標にしていたので、走行安定性の観点から3581mmにはせず3380mmとやや狭くした。それでも狭軌線客車より500mm幅が広い。そしてこの幅がそのまま新幹線の規格に踏襲されている。

 軌間に対して車体幅は2.36倍になっている。現行在来線の特急用など広幅車(2950mm)は2.77倍だから、それよりも安定している。大正時代に提唱された車体幅3581mmでも2.5倍である。

 JR東日本の701系・719系電車には狭軌線用と標準軌用の2種がある。標準軌用は秋田・山形新幹線区間の普通列車で使われている。標準軌用の719系の車体幅は軌間に対して2.02倍になっている。701系だと1.96倍である。

 701系や719系の狭軌車両と標準軌車両とを乗り比べてみると、明らかに標準軌車両のほうが乗り心地がいい。狭軌線の車体幅は、大正時代以前の2500mmだと2.35倍と現行新幹線とほぼ同じになり、この幅だと安定する。在来線で200キロ運転をするならば2500mmに狭くするのがいいといえる。

 もうひとつ、3380mmにした理由は、普通車で横23列にできて輸送力が大きくなることである。食堂車の食事席と一般通路とを分離する、国鉄の長年の夢も実現した。個室やハイグレードグリーン車も一般通路と分離ができる。

 食堂車や個室はなくなったが、今後、豪華新幹線電車を造るとすれば、再び食事席と通路を分離した食堂車が連結されるだろう。

 また、東北・北陸新幹線で連結されているグランクラスは、一般客が通り抜けできないように列車の最端部に連結されているが、これも一般通路を分離すれば中間車両に連結することができる。

鉄道に関するウンチク満載の本コラム著者の新刊

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                                                  『思わず誰かに話したくなる鉄道なるほど雑学』川島令三


今さら聞けない、鉄道にまつわる疑問がスッキリ解決! 鉄道アナリストである川島令三氏が、60年以上にわたり蓄積した鉄道に関する用語や事柄、成り立ち、構造などをわかりやすくコラム仕立てで解説する。
・東海道線の終点は新大阪?それとも神戸?
・秋田新幹線と山形新幹線は実は在来線?
・特急料金が100円の新幹線がある?
・一番揺れが少ないのは車両の真ん中
・使い分けている?「普通」と「各停」
・ほとんどの食堂車は電子レンジがなかった…etc.

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