天牛(紙切り虫)

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カテゴリ: 中国文化・歴史関係

司馬遷「史記」研究家・書家 吉岡和夫さん
日経スタイル

2020/9/13

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中国・前漢時代の歴史家、司馬遷(紀元前145年ごろ~同86年ごろ)が書き残した「史記」は、皇帝から庶民まで多様な人物による処世のエピソードに満ちています。銀行マン時代にその魅力にとりつかれ、130巻、総字数52万を超す原文を毛筆で繰り返し書き写してきた書家、吉岡和夫さん(81)は、史記を「人間学の宝庫」と呼びます。定年退職後も長く研究を続けてきた吉岡さんに、現代に通じるエピソードをひもといてもらいます。(前回の記事は「トップを狂わせた『笑わない美女』」 史記のミステリー」)


自分をひどい目にあわせた者を許すのは難しいことです。自分は間違っていないと考えているなら、なおさらでしょう。泣き寝入りでは惨めさを引きずり、人から軽蔑されることにもなりかねません。どうやり返し、あるいは、許せばいいのか。中国・戦国時代(紀元前403~同221年)を生きた范雎(はんしょ)のエピソードから考えます。

トイレに放り込まれる屈辱

范雎は魏(ぎ)の国に生まれ、各地を巡り弁舌を磨きます。魏王のそばに仕えたいと考えますが、家が貧しく、自分を売り込む金がないため、まず須賈(しゅか)という人物の下で働きます。そこで経験した屈辱が彼の人生を変えます。

范雎は、斉(せい)の国への使者となった須賈に同行します。交渉はうまく運ばないのですが、斉の王は范雎の才を評価し、財貨を与えようとしました。范雎は辞退しますが、上司の須賈は怒り、彼にスパイの嫌疑をかけます。帰国後、魏の宰相、魏斉(ぎせい)に告げ口し、交渉不調の責任まで范雎にかぶせます。


魏斉の指示で范雎はむち打たれ、あばら骨や歯を折ります。苦しみのあまり死んだふりをすると、す巻きにされてトイレに放り込まれました。そこへ酔客がかわるがわる用を足しにやってきます。見せしめの罰でした。


范雎は番人に「脱出させてくれたら、必ず厚くお礼をする」と頼みます。一計を案じた番人が「す巻きの死体を捨ててきたいのですが」と魏斉におうかがいをたてると、酔った彼は確認もせずに許可します。知人らの助けもあって、范雎は張禄(ちょうろく)に改名して生き延び、強国・秦に逃れます。

范雎は秦で大出世を果たします。秦の昭王に上書して面会の機会を得ると、慎重な言い回しでまず外交政策を説きます。それで実績をあげて信頼を得ると、王にとって深い悩みの種であった内政問題に踏み込みます。権勢をふるい私腹を肥やしていた王族らの排除を訴えたのです。背中を押された王は彼らを追放し、范雎を宰相に任じます。

范雎の弁論術は、この連載で取り上げたことのある蘇秦張儀に負けていません。まず国の美点を指摘することを忘れず、悩める王の関心をひく課題を示し、歴史の教訓を語ります。イエスマンではなく、よき理解者となることで秦王の心をつかみます。

やがて范雎に復讐(ふくしゅう)のチャンスが訪れます。須賈が魏の使者として秦にやってきたのです。

范雎がわざとボロを着て群衆に紛れていると、須賈が目ざとく見つけて驚きます。粗末な姿の范雎に

 

向かい「范さん、秦で遊説しているのか」と聞くと、范雎は「逃亡の身で遊説どころではなく、日雇いの生活をしています」と偽ります。

 

須賈には負い目もあったのでしょう。范雎を食事に誘い「袍(はいとへんに弟、ていほう=綿入れ)」を与えました。そして宰相に会いたいが、取り次いでくれる者を紹介してほしいと依頼します。范雎は「私にやらせてください」と答え、主人に借りたという馬車に須賈を乗せ、自ら手綱を取って宰相のいる役所に入ります。


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                    イラスト・青柳ちか


車で長く待たされた須賈が門番に「范さんはどうして戻ってこないのだ」と聞くと「范さんという名の者はいません」との答え。「先ほど一緒に入ってきた者だよ」と重ねて尋ねると、門番は言いました。「あれは宰相です」


須賈はようやく欺かれたことに気づき、范雎の前に出ると「死んでおわびします」と平謝りです。范雎は「あなたの罪は3つある」と語り、自分が斉のスパイであるかのように魏斉に告げ口したこと、自分をトイレに放り込もうとする魏斉を止めなかったこと、トイレで辱められている自分を黙って見ていたことを挙げます。そのうえで語りかけます。


 (しか)れども公の死する無きを得る所以(ゆえん)は、袍恋恋(れんれん)として故人の意(こころ)あるを以(もっ)てなり。


それでもあなたが死なずに済むのは、私に贈った綿入れに、私を懐かしむ昔なじみの思いがこもっていたからだ――。もちろん、仕返しがこれで達せられたわけではありません。范雎は秦王に断った上で、卑しい身分の者を使って須賈の頭を押さえつけ、馬の餌を食べさせます。そして脅しました。「魏王に告げよ。急ぎ魏斉の首を持ってこい。さもなくば魏の都を攻め落とす」


このことを耳にした魏斉は逃げ出します。趙や楚の国に頼ろうとしますが、秦の武力を背景にした范雎の執拗な追及にあい、自殺に追い込まれました。


復讐に成功した范雎でしたが、自分を助けてくれた人物を重用する人事では立て続けに失敗します。それでも秦王は彼の立場を守りつづけるのですが、范雎はそれを苦にします。そこに、燕(えん)の国から流れてきた論客、蔡沢(さいたく)が現れます。蔡沢は仕官を求めて諸国を巡るものの、追い払われたり、盗賊にあったり、不遇な苦労人でした。


蔡沢は范雎の悩みを察し、人づてに范雎を挑発します。「蔡沢は天下にとどろく雄弁の士だ。彼が秦王に会えば、あなたから宰相の位を奪うことになるだろう」。怒った范雎は蔡沢を呼びつけ、その傲慢な態度にさらに怒りを募らせながら問いました。「私の地位を奪うと言ったとか。まことか」。蔡沢は「その通りです」と認め、説明を求められると名言を口にしました。


 ああ君何ぞ見ることの晩(おそ)きや。それ四時(しじ)の序、功を成す者は去る。
あなたはまだ気づかないのですか。四季の移り変わるのと同じく、功成り名を遂げた者は地位を譲るものです――。蔡沢は権力にしがみついて晩節を汚した歴史上の人物を次々にあげ、范雎に引退を迫ります。


 日、中すれば則(すなは)ち移り、月満つれば則ち虧(か)く。
太陽は南中したら日没に向かい、月も満月になると次第に欠けてゆくではありませんか――。蔡沢は引き際の大切さをくり返し訴えました。


これを聞いた范雎は蔡沢を許すだけでなく、秦王に自分が病気であると偽り、後任に蔡沢を推薦して宰相の地位を離れました。蔡沢はすぐに実績をあげますが、就任から数カ月後、やはり病と称して職を辞します。自分への陰口を知り、殺されるのを恐れたのが本当の理由でした。

蔡沢の宰相辞任の詳しい経緯は史記に書かれていませんが、恨まれたり、恨んだりするのがいやで早々に身を引いたのだと思われます。彼は宰相は辞めますが、秦の始皇帝まで4代の王に仕える功労者であったことは記されています。

「困厄」を知る人ほど

ささやかな行いを良しとして須賈の死を免じ、正論を認めて蔡沢の無礼を許した范雎は、権力者が陥りがちな破滅的な最期を免れました。「冷酷非情」「卓見に耳をふさぎ、引き際を誤った」というような悪評も残さずに済みました。

現代は不寛容の時代あるいは不機嫌な時代などと言われます。もし自分が恨みを抱いた人物がいても、相手の言動の中に、否定できない価値あるものを見つけたら、許してみるのも悪いことではない気がします。

司馬遷は「范雎蔡沢列伝」の結びとして、范雎と蔡沢の2人が「困厄(こんやく)せざりせば、悪(いづく)んぞ能(よ)く激せんや(苦労の経験がなかったら、あれほどの勢いで伸びることはなかっただろう)」と書きました。苦労した人ほど、寛容になれるのかもしれません。

吉岡和夫

1939年(昭和14年)千葉県生まれ。横浜国大経済卒。東海銀行(現在の三菱UFJ銀行)に30年間勤務。書家の古谷蒼韻氏に師事。雅号は「泰山」。中国「司馬遷史記博物館」(2016年開館)の顧問も務める。著書に『史記を書く』(1996年)、『毒舌と名言の人間学』(2005年)など。名古屋市在住。

 

【写真特集】消滅国家、満洲国の痕跡を求めて


JBpress
(文+写真:船尾 修/写真家)

2020.9.15

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1937年(昭和12年)に竣工した三越百貨店大連支店は大連駅からも近い連鎖街とは道路を挟んだ向かい側の旧常磐町にある。三越はよく知られているように日本の百貨店の元祖。5階建てで4階はレストランになっていた。戦後はソ連軍に接収された後に大連市に返還され、ロシア系の百貨店である秋林(チューリン)女店として使われたが、2016年にZARAという店舗に変わった。

◎【写真特集】「消滅国家、満洲国の痕跡を求めて」 記事一覧はこちら

 

 ≪かつての日本の植民地の中でおそらく最も美しい都会であったにちがいない大連を、もう一度見たいかと尋ねられたら、彼は長い間ためらった後で、首を静かに横に振るだろう。見たくないのではない。見ることが不安なのである。≫

 という書き出しではじまる『アカシヤの大連』は、満洲・大連生まれの詩人で作家の清岡卓行の私小説だ。彼はこの初めての小説で1970年(昭和45年)度の芥川賞を受賞している。

 1922年(大正11年)に日本の租借地である大連で生まれた清岡は大連一中を卒業すると単身日本へ渡り、東京帝国大学仏文科に進む。しかし戦争が激しさを増した1945年(昭和20年)春の東京大空襲の直後、実家のある大連へ戻った。

 ≪大連の五月は、彼にとって五年ぶりのものであったが、こんなに素晴らしいものであったのかと、幼年時代や少年時代には意識してなかったその美しさに、彼はほとんど驚いていた。≫

 10万人が死亡し、100万人が罹災したといわれる310日の東京大空襲。食料はとっくの昔に配給制となっており、清岡に限らず都会に暮らす人たちはみな飢えていた。しかし大連へ戻ってくると、拍子抜けするほどそこには戦争の影などなく、喉から手が出るほど欲した米や肉や卵など食べるものはなんでも手に入った。酒も煙草も入手に困らない別天地だった。彼は毎日、昼ごろに起き、アカシヤの花の甘く芳しい香りを嗅ぎながら散歩し、6畳の自室にこもってレコードを聴いたり読書をしたりしてゆったりと過ごした。

宙ぶらりんの存在だった大連

 ただ、自分が何者であるのかという問いはずっと心の内に澱のように溜まっていた。戦後、清岡が文学の道へと進んだのは、おそらくその問いから彼自身が逃れられなかったからではないだろうか。それは、植民地が自分の故郷であるということへの葛藤である。

 ≪彼は、自分が日本の植民地である大連の一角にふるさとを感じているということに、なぜか引け目を覚えていた。・・・自分が大連の町に切なく感じているものは、主観的にはどんなに〔真実のふるさと〕であるとしても、客観的には〔にせのふるさと〕ということになるのかもしれないと思った。≫

大連は日本の租借地であった。日露戦争後の1905年(明治38年)にロシアの権益を引き継ぐ形で清国から租借地として譲り受けることになったのである。大連を含む地域は、関東都督府、関東州、関東局(関東庁)と名称を変えながらも、その後、実質的な日本の植民地として発展していくことになる。

 1932年(昭和7年)に満洲国が建国されると、そのときにはすでに清朝が滅亡していたこともあり、租借先は清国から満洲国へと改定された。つまりこの時期になると、大連のある関東州は日本が租借していたけれども、法的には本来は満洲国に属していたことになる。

 その満洲国において全権を握ったのは関東軍司令官であるが、関東軍司令官は関東州(庁)長官をも兼務することになっていた。こうして関東州はいつのまにか満洲国の一部のような扱いに変更されてしまったのである。日満一体化という流れの中で、関東州最大の都市である大連はまさに日本と満洲国をつなぐ媒体のような位置づけだった。

 日本でもなければ、満洲国でもない。朝鮮や台湾のように日本の植民地でもない。そうした宙ぶらりんの存在が、関東州であり、大連であったといえる。清岡の抱える葛藤は、大連生まれである自分の故郷はいったい日本なのか満洲なのか定義できない根無し草のようなあやふやさに端を発していたと推測されるのである。

 実際のところ、満洲国には国籍を規定する法律がなかった。五族協和が掲げられ、満洲人、漢人、蒙古人、朝鮮人、そして日本人が混じり合いながらも、彼らは「満州国人」ではなかった。本連載の「(5)溥儀が信じた偽りの復辟」でもすでに触れたことだが、満洲国が国家としての完成度は低かったとわたしが論じたのは、この国籍の問題もおおいに関係している。

 なぜ満洲国では国籍法がつくられなかったのだろうか。それは日本の国籍法が関係している。日本は二重国籍を認めていないから、そうするともし満洲国の国籍を選べばその人は日本国籍を失ってしまう。国際的に信用度の低い満州国人にわざわざ国籍を変更する日本人はほとんどいないだろう。

 満洲国には日本の省庁からたくさんの官僚が派遣されていたが、そうすると国籍という点で問題が表面化してしまう。満洲国が日本の傀儡国家であるがゆえに、国籍法を制定しまうと大きな矛盾が生まれてしまうのである。

「五族協和」「王道楽土」が満洲国をあらわすキャッチフレーズであり、日本人の多くはその言葉を信じ、疲弊する自分たちの暮らしをなんとか打破し、輝く未来への軌跡の先に満洲という存在を夢見たはずだ。日本政府も1936年(昭和11年)に「満洲開拓移民推進計画」を閣議決定して、20年間で500万人の日本人を移民させる計画を立てた。

 私は思うのだが、「よし、満洲で一旗あげるぞ!」と意気込んで満洲へ渡った人たちのうちいったいどれぐらいの人たちが世界の中での満洲の位置づけを正確に把握していたのだろうか。彼らにとって満洲という地は果たして外国であったのか、それとも日本であったのか。

「大連は夢の都」と公言した井上ひさし

 清岡の父親は満鉄の技師であった。彼が東京から大連の実家に戻ってきたとき、父親はすでに満鉄を退職しており、庭で植木いじりなどをしたり近所の人と碁や将棋をうったりと余生を楽しんでいた。自らが志望して満鉄に入ったのか、どこからか派遣されたのかはわからないが、父親は戦争の激しさが増すばかりの日本へ戻るつもりはなかったらしい。母親は召集されて戦地に赴いた清岡のふたりの兄のために毎日神棚に祈り、戦争を心から憎悪していたという。

もちろん百人いれば百通りの人生があるように、一概には決めつけることはできないが、清岡の家庭は大連という街の中でごく平均的な日本人の典型ではなかったかと思う。

 多くの日本人にとって大連という街は、都市計画に基づいた美しく頑強な洋風建築が建ち並び、水洗トイレや電話の自動交換機などまだ日本国内で整備されていないインフラがふつうにあるという先進都市であった。大連港は自由貿易港であるため外国製品が安価に購入できる。満洲を貫く鉄道、とりわけ超特急あじあ号の起点であり、ヨーロッパとも往来が可能だ。野心家たちにとってはまさに夢のような都であったことだろう。もし私がこの時代に生きていたならば、やはり同じように夢と希望を求めて大陸へ渡ったような気がする。

 小説家で劇作家の井上ひさしは大連生まれでもなければ、戦前の大連に滞在したこともないが、「大連は夢の都」と公言し、終戦前後の大連を舞台にした戯曲を何本も書いた。その代表的なものに、『連鎖街の人々』と『円生と志ん生』がある。これらの戯曲を書くために、井上は戦前の大連の写真や絵葉書を大量に蒐集して、『井上ひさしの大連』という本までまとめている。

 いったい大連の何が井上をそこまで駆り立てたのだろうか。単にノスタルジーを感じたためなのだろうか。『連鎖街の人々』ではソ連侵攻後の大連に暮らす人々の日常を描いていることから、おそらく短期間の間に日本人の手によって建設された「夢の先進都市」が戦争という歴史の大波に飲み込まれるように崩壊していくその「物語性」に強く惹かれたのではないかと私は推察している。滅びの美学というやつだろうか。

『円生と志ん生』の円生とは六代目三遊亭圓生のことであり、志ん生とは五代目古今亭志ん生のことである。ふたりとも実在の落語家だ。ふたりは満洲演芸協会の仕事で満洲へ赴いたものの、途中で終戦を迎えることになり日本へ帰国できなくなってしまった。当地で演芸会などを催しながら食いつなぎ、結局満洲では2年間を過ごすことになったのである。

 連鎖街というのは大連駅のすぐ近くにつくられた今でいうショッピングセンターで、連鎖商店街ともいい、約200店舗が軒を連ねた。1930年(昭和5年)にオープンし、道路に面して全面ガラス張りのショーウィンドウや、雨の日でも買い物ができるように天窓に明かり取りがついたアーケードがあった。

 当時は銀座や心斎橋などでもそのような店はまだ少なく、まさに国際都市・先進都市・大連の名に恥じないものであった。設計は中村與資平(よしへい)の弟子である宗像主一である。中村與資平は明治から昭和にかけて活躍した日本を代表する建築家のひとりで、朝鮮や満洲においても銀行や公共機関など多数の建築を手がけた。

都市対抗野球を席巻した大連チーム

 戦前の大連ではスポーツも盛んで、そのなかでも市民が最も熱狂したのは野球である。大連には、満鉄社員を中心にした「大連満洲倶楽部」と、その他の会社に所属している「大連実業団」という社会人野球の二強があり、両チームの対戦は「満洲の早慶戦」とも呼ばれた。

 現在の都市対抗野球大会が始まったのは戦前の1927年(昭和2年)のことだが、その記念すべき第1回大会では大連満洲倶楽部が優勝した。そして第2回大会は大連実業団が、第3回大会は再び大連満洲倶楽部が優勝したのである。両チームとも終戦によって消滅したが、それまで優勝3回、準優勝3回は満洲のチームによって成し遂げられた。

 大連満洲倶楽部は満鉄社員で構成されていた関係で、東京六大学などから有望な選手を獲得しやすかった。というのは、当時の満鉄といえば高給取りの代名詞だったからである。単に月給が高いだけでなく、遠隔地手当が充実し、住宅も提供されるなど、日本の企業としては破格の待遇であった。国策企業ではあるのだが、鉄道以外の多方面に事業を展開しており、文化活動やスポーツの振興にも力を入れていた。

 その後、1936年(昭和11年)に現在のプロ野球の前身となる日本職業野球連盟が発足してからは優秀な選手はプロに流れるようになり、また戦況が悪化するにつれ満鉄社員も召集されるようになったために、大連満洲倶楽部もよい成績を残すことができなくなっていく。

 余談だが、作家の清岡卓行は大の野球ファンであった。特に田部武雄という俊足の選手がお気に入りだった。そのため清岡は父の会社である満鉄を応援するのではなく、田部が所属していた大連実業団を応援していた。田部はその後、草創期の巨人軍に入団し、背番号13をつけた。ちなみに永久欠番になっている長嶋茂雄の背番号3を最初につけた選手が田部である。

 多くの日本人が憧れた国際都市にして先進都市の大連。終戦時には約60万人の人口のうち20万人を日本人が占めたといわれている。しかし、その栄華が永久に続くことはなかった。

 ≪戦争中におけるこれらの安楽について、その代償を支払うかのように、大連にいた日本人たちは、やがて敗戦後の引き揚げについて、財産や職業のほとんどすべてを無残にも失わなければならなくなるのである。≫

 清岡は小説の中でそう記している。井上ひさしが表現した「夢の都の大連」という言葉の真意は、もしかしたら「はかない夢・大連」という意味だったのかもしれない。

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1930年(昭和5年)に開業した連鎖商店街は当時としては最もモダンなショッピング・センターであった。3階建ての瀟洒な建物が16棟、連結されるように商店街を構成している。1階が商店や店舗で、2階と3階が住居として使われた。劇場や喫茶店、レストラン、公衆浴場など200店舗が連なっていた。

円生と志ん生が興行した映画館と劇場を兼ねた常盤座もこのなかにある。私はその建物の内部を見学させてもらったことがあるが、「昭和」を想起させる美しいタイルが細かく貼られた大きな柱が残っていた。連鎖街の多くは現在、奇跡的にほとんどの建物が残存しており実際に商店として使われているが、老朽化が進んでいるため近い将来に取り壊されるという噂である。

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真宗大谷派(東本願寺系)は他の仏教教団と同じく1904年(明治37年)の日露戦争において初めて満洲へ従軍布教使を送った。1910年(明治43年)には僧侶の新田神量を大連に派遣し、別院創立事務所を開設させた。この東本願寺大連別院は1930年(昭和5年)ごろに竣工したと思われる。満洲に進出した仏教教団の多くは満洲国が建国されて以降、積極的に国策に協力する姿勢を取った。3階建てのこの建物は現在、大連京劇院として使用されている。

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大連中学校は1918年(大正7年)に関東州で2番目の中学校として開校した。その後、大連第一中学校となる。芥川賞作家の清岡卓行は同校の出身。他に芸術関係の卒業生として、五味川純平や山田洋二らがいる。大連中学校が建てられた旧・伏見台一帯は文教地区として教育機関が集中していたところで、他に大連羽衣高等女学校、南満州工業専門学校、伏見台尋常小学校などがあり、それらの建物の多くは現在も残存している。

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大連南郊の老虎灘は断崖が続く海岸の景勝地である。海を見下ろすその高台の一角に、名古屋城を彷彿とさせる木造の日本建築がある。屋根には「しゃちほこ」が載っている。当時、一方亭と呼ばれた高級料亭で、満洲国建国の1932年(昭和7年)に建てられた。村上もとか作の『龍 RON』は戦前を舞台にした人気漫画だが、主人公の龍の叔母・小鈴が経営する料亭で甘粕正彦らが密談するシーンがあり、一方亭をイメージしたものと考えられている。

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かつて大連の逢坂町と呼ばれていた場所に遊郭があった。戦前の1930年(昭和5年)に発行された『全国遊郭案内』によると、「大連市逢坂町遊廓、明冶四十年に料理店の名目で始まる。店は七十軒もあり芸娼妓九百人の内二枚鑑札が四百人、娼妓は五百人、娼妓内朝鮮人は百五十人で日本人娼妓は九州、四国の女が多い。」と記されている。満洲へ渡る日本人は男性のほうが圧倒的に多かったため遊郭などの花街も当然必要とされたのだろう。現在も狭い通り沿いに当時の建物が残っており、集合住宅として使用されている。

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1912年(大正元年)に建立された聖徳太子堂は現在の中山公園内にある。日本には、大工や左官、建具屋、畳屋、石工などの職人が聖徳太子を祀る「太子講」というものがあり、江戸時代には特に盛んに行われた。仏教を保護した聖徳太子は法隆寺などの寺院を建立する際に職人を大事にしたといわれており、その故事にちなむ行事として現代にも継承されているのである。関東州が日本の租借地になって以降、建設ブームに沸く中心都市の大連にはたくさんの職工たちが押し寄せ、太子講という信仰もそれに伴って持ち込まれることになった。

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1936年(昭和11年)に竣工した大連放送局(JQAK)の社屋は美しい曲線に彩られたアールデコ調の建築であった。放送局自体は1925年(大正14年)に開設されたが、満洲電電が設立されてからは飛躍的に視聴者も増えていった。現在もここには大連広播電視中心という放送局が置かれているが、本社ビルは新しく建設された高層ビルのほうに移っている。

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三越の大連進出は早く、社史によると1910年(明治43年)にはすでに三越呉服店が大連出張所を構えている。現在のような3階建ての建物が完成したのは1927年(昭和2年)になってから。設計者は中村與資平と弟子の宗像主一。施工は清水組。三越呉服店はその後、1937年(昭和12年)に大連駅近くの連鎖商店街の前に三越百貨店大連支店ができた際に、そこに統合された。現在は、大連銀行中山支行として使われている。

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大連在住の日本人の氏神として、南山の北麓に1907年(明治40年)大連神社が創建された。祭神は天照皇大神や大国主命などである。後に日清日露戦争時の戦没者も合祀したため、「外地の靖国神社」としても機能した。終戦時にはここにもソ連兵が侵攻してきたが、神職らが機転を利かせて雅楽などを披露するとソ連軍の間で評判となり破壊は免れたという。1947年(昭和22年)に水野久直宮司が御神体と宝剣を隠して日本へ帰国、福岡市の筥崎宮に仮安置された後、水野宮司が赴任した山口県下関市の赤間神宮境内に御神体を運び、境内社として大連神社を祀ることになった。大連にあった本殿は取り壊され、現在は跡地に解放小学校が建っている。

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連載 藤和彦「日本と世界の先を読む」

ビジネスジャーナル(藤和彦/経済産業研究所上席研究員)

2020.09.12

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首相官邸「HP」より


 中国の習近平国家主席は9月8日、医療専門家らの功績をたたえる表彰式に出席し、「自国は新型コロナウイルス対応で前代未聞の歴史的な試験に合格した」と誇らしげに語った。新型コロナウイルス発生の発端となった国が、いち早く災禍から立ち直るとはなんとも皮肉な話である。中国の管理主義的な国家体制が功を奏した結果だが、いまだに深刻な影響を受けている国からしてみれば憤懣やる方ないこと、この上ないだろう。

 

 新型コロナウイルスのパンデミックが長引けば長引くほど中国のパワーが増していく一方で、「戦狼外交」と称される中国の対外強硬的な路線が日を追うごとに強まっている。「金持ち喧嘩せず」ではないが、他の国々に対してもっと寛容になっても良いのではないかと思うのだが、中国はなぜ自国の利益を優先した姿勢を続けているのだろうか。 

 

 その背景には、中国の悲しい近代の歴史が関係していると筆者は考えている。有史以来「自らは世界の中心である」との幻想に浸ってきた中国は、1840年に夷狄である英国にアヘン戦争で徹底的に痛めつけられ、1894年から始まった日清戦争でも属国だと思っていた日本にまさかの敗北を喫した。その後1世紀にわたり欧米諸国や日本により半植民地化されたという苦い経験が深く刷り込まれていることから、中国は西側諸国が確立した国際秩序に不信感を抱き続けているのである。

 

  精神分析学者の岸田秀氏は以前から「このような深刻なトラウマを抱えた中国は、自分に対する攻撃者が実際以上に巨大だと誤解して、被害妄想に陥る傾向が強い。被害妄想が過剰なまでの排他的ナショナリズムに転じる可能性もある」と指摘する。約40年前の改革開放を契機に中国は奇跡の経済成長を遂げ、今や米国と並ぶ大国となった。経済が発展するにつれて台頭し始めていた国粋主義的なナショナリズムを中国の指導部がこれまで慎重に取り扱ってきたが、習主席は2012年に「中国の夢」を語り始め、2017年には「2050年には世界のトップに立つ」ための具体的な行動計画を打ち出し、ナショナリズムという魔物を解き放ってしまった。

 

中国、国際社会で孤立

 中国の不寛容な対外的政策は、アヘン戦争以降の屈辱の歴史に対する意趣返しなのかもしれないが、超大国になっても中国がこのような行動を取り続ければ、国際社会から孤立してしまう。共産党内でもこのことを憂う人たちが出てきている。

 

 人民解放軍の代表的なタカ派として有名な中国国防大学戦略研究所の戴旭教授が今年3月に行った講演が、最近中国で大きな話題となっている(7月21日付中央日報)。戴氏は講演の最初に「米国のやり方が情け容赦のない非常に手厳しいものだった」と米国の中国に対する態度の急変ぶりに驚いたことを素直に告白している。

 

「現在の共産党指導部を構成する習主席の世代は、米国に対する見方が甘い」との指摘がある(「Voice」<10月号>)。1953年生まれの習主席が19歳になった1972年にニクソン大統領が訪中し、その後米中関係は長期間にわたって良好な関係が続いた。つまり米国は中国に対して常に「甘い顔」を見せてきたのだが、この経験が現在の中国の指導部が米国との対応を判断する際の基礎となっているというわけである。

 

  戴氏はさらに「中国がこのように米国から不利益を被っているにもかかわらず、中国に同情や支持を示す国がひとつもない。多くの国が米国の貿易政策に反対しながらも、これによる最大の被害者である中国の味方となって反米戦線を構築しようとする国は現れない。中国は今まで世界各国に援助を惜しんでこなかったが、いざ重要な時期には中国と共に行動する国がいない」と中国が国際社会で孤立している状況に危機感を露わにしている。そして最後に「米国の前では絶対に『我々が米国を追い越す』と言ってはならない。中国は米国を相手にするとき、必ず怒りではなく理性を持って臨まなければならない」と締めくくっているが、指導部の対応が変わったようには思えない。

 

 気になるのは冒頭で述べた表彰式の際に中国政府が「毛沢東が1950年代に『住血吸虫症』を撲滅したという勝利の物語」を持ち出したことである。住血吸虫症とは、淡水に棲息する寄生虫によって媒介される病気である。臓器不全を引き起こし、最終的には死に至らしめることもある。

この物語はまったくの誤りであり、最新の公式データによれば、2016年の住血吸虫症の感染者は5万人以上に上るが、注目すべきは毛沢東がクローズアップされていることである。毛沢東は暗黒の近代から中国を救った唯一の人物であり、中国共産党は苦難に直面するたびに「毛沢東に戻る」習性がある。毛沢東の政策の基本は「怒り」である。

 

「共産党の指導者の狂気につきあうことはできない」

 傍若無人のように振る舞う習主席だが、9月3日の抗日戦争勝利記念75周年の座談会の場で、7月に「中国共産党は中国ではない」と批判したポンペオ米国務長官の発言を念頭に、「いかなる人も、いかなる勢力も、中国共産党と中国国民を切り離して対立させようとする企てに対して、中国人民はけっして承諾しない」と強調した。

 

 盤石に見える中国だが、中国共産党に対して国際的な批判が強まるなかで、習主席の心中は穏やかではなく、恐怖心すら抱いているのかもしれない。攻撃的なナショナリズムの陰に潜む被害妄想が頭をもたげており、毛沢東の時代のような鎖国状態に逆戻りする可能性も排除できない。

 

 8月26日付米ラジオ・フリー・アジアは「海外移住や外国のパスポートを取得した中国高官は数百人どころではない。一般市民も海外移住を急いでいる」と報じた。人々は「共産党の指導者の狂気につきあうことはできない。今逃げなければ間に合わなくなる」と語っているように、中国社会にはかつてない社会不安が覆っているのかもしれない。

 

 中国という超大型客船の底に少しずつ水が入り込み、「タイタニック号」のように沈没するのは時間の問題なのではないだろうか。

【写真特集】消滅国家、満洲国の痕跡を求めて

JBpress(文+写真:船尾 修/写真家)

2020.9.8

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1908年(明治41年)に大連のこの場所に置かれた満鉄本社は現在、瀋陽鉄路局大連分局として使用されている。もともとは日露戦争前にロシアが建てて商業学校として使われていた建物。大連満鉄旧蹟陳列館として公開された時期もあったが、私が訪れた2017年は事前予約にかぎって内部の見学はできた。

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 満洲国にはいったいどれぐらいの数の日本人が在住していたのだろうか。実はこの問いに対する答えはなかなか難しく、正確な数値を出すことはできない。外務省の「満洲開拓史」によると、終戦時の在満邦人は155万人。満蒙同胞援護会の「満洲国史・上」では終戦翌年の引き揚げ時において136万人という数字が著されているので、公式の在住者数は200万人未満といったところだろう。

 1940年(昭和15年)の満洲国国務院による国勢調査では、約4101万人の国民のうち、日本人はその5.2パーセントの213万人ということになっている。ややこしいのは、この数字には131万人の朝鮮人・台湾人が含まれていることだ。なぜならその時点で朝鮮半島と台湾は日本の植民地になっていたから、朝鮮人も台湾人も「日本人」にカウントされたからである。ということはその数字を引いた82万人が日本人(内地人)の実数ということになる。

 しかしこの数字には軍人やその関係者は含まれておらず、また租借地である関東州における人口は入っていない。この他、満洲へは一獲千金を夢見て渡航してきた人も少なくないのだが、すべての人が成功したわけではなく、失敗して流浪の民になったり日本へ帰国した人も多かったわけで、人口は流動が激しかった。そもそも定住していない人の数はなかなか表面には出てこない。

 細かい数字はわからないが、それでも少なくとも数百万人単位の日本人が実際に満洲へ渡航したことは間違いないだろう。日本が日露戦争に勝利し、ポーツマス講和条約が結ばれたのは1905年(明治38年)のことだが、早くもその年に大阪と大連を結ぶ定期航路が就航している。神戸と門司を経由する航路で、大阪商船によって運行された。この日満連絡船はその後、満洲へ渡る日本人が増えるにつれて増便され、最盛期には毎日運航された。また、鹿児島や長崎から大連へ往復する便も就航するようになる。

 大連のすぐ南にある旅順がその地政学的な位置からロシアにとっても日本にとっても軍港としての機能が重視されて発展していったように、大連は良港をもつがゆえに満洲における海運を一手に担うという点で街の発展は約束されたも同然だった。

 現在は人口が600万人という大都会の大連だが、しかし当時は数万人程度の小さな街に過ぎなかった。日露戦争前にはロシアがこの地を清朝から租借しており、ロシアは不凍港である大連を足掛かりにして日本や南方への進出を目論んでいた。大連という地名はロシア語で「遠方」を意味する「ダーリニー」から来ている。日本がこの地を占領後、そのロシア名を漢字に置き換え「大連」と呼んだのはおもしろい。

ロシアはすでにこの大連をヨーロッパ風の近代都市にするべく都市計画を策定して建設に着手したばかりだった。その途上で支配者が日本に移り変わったのである。日本がそのロシアが遺してくれた基盤をそのまま受け継ぐことができたのは、その後の街の建設を効率よく短時間でやり遂げるという意味では幸運だったといえる。

満洲国の経済の舵取りを行った国策会社、満鉄

 南満洲鉄道株式会社(満鉄)が誕生したのは翌1906年(明治39年)のこと。日露戦争の勝利によってロシアから得た権益のひとつに大連と長春を結ぶ鉄道があるが、その経営を担うというのが表向きの理由である。日本政府が資本金の半分を拠出していることから、満鉄は半官半民の国策会社であった。

 現代であれば第3セクターということになるだろうが、満鉄は一般の会社とは一線を画した性格を持っていた。設立に際しての初代委員長に、当時台湾総督であった児玉源太郎・陸軍大将を任命していることからもそれは読み取れるかもしれない。初代満鉄総裁となった後藤新平は児玉の部下にあたり、台湾総督府では民生長官を務めていた。

 こうした人事から見ても、日本政府は満洲を、やがて台湾と同じような形で植民地として経営していく心積もりであったといえるだろう。連載(3)(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/61654)ですでに述べたように、日本は鉄道そのものだけではなく、清国に対して「鉄道附属地」の開発と運営の権利を認めさせていた。鉄道附属地に関東軍兵士が駐屯した事実を見てもわかるように、ここは清国の法律が及ばない治外法権地帯であり、実質的には飛び地の植民地だったといえるだろう。

 鉄道附属地を開発するとはどういうことかというと、それはそこに日本のミニチュアを造成する作業といえるかもしれない。経済の大動脈である鉄道の沿線にいくつもの日本のミニチュアを築き上げ、それらを連結させることによって最終的に満洲の地を支配していくという構想である。そしてその鉄道附属地の開発・運営を担うことになった組織が満鉄であるといえるだろう。

 関東軍がその軍事力を背景に満洲の実質的な統治者として君臨したのに対して、満鉄は行政全般を担う関東都督府(のちの関東州)と肩を並べる形で経済の舵取りを行った。日本は戦後、官民財が一体となって経済発展をリードしてきたが、そのような一種の統制経済の原型を満洲に求めることができるのかもしれない。

鉄道なくして経済発展は不可能だった

 現代ではトラックや飛行機に物流の主役の座を譲った感があるが、かつて鉄道は流通の王様であった。経済を飛躍的に発展させるためには、まず生産した物資を大量に運搬しなくてはならない。消費はその後についてくる。自動車というものがまだ一般的ではなかった戦前において、鉄道なくして経済発展は不可能な話であった。

 それを端的に示しているのが、プロ野球のチーム名である。かつて存在した球団名を思い出してほしい。国鉄スワローズ、阪急ブレーブス、南海ホークス、近鉄バファローズ、西鉄ライオンズ・・・、懐かしい昭和の響きを持つこれらの球団の親会社は鉄道会社であった。高度成長期にある日本の経済の索引者として、鉄道会社はまさに花形であったのだ。

 プロ野球に限らずプロ・スポーツのチームを支える企業というのは、その時代を象徴するような存在。これ以上イメージアップをはかることのできる広告はめったにないだろう。現在のプロ野球球団を見るとIT関連の企業が多いこともまさに時代を象徴しているといえるだろう。

話は少しそれるが、私は「満鉄」という名前を中学生のころから知っていた。当時、私は「てっちゃん」(鉄道マニア)の駆け出しで、珍しい乗車券を集めたり、SLを撮影するために遠出したりしていたのだが、何かの雑誌に掲載された「あじあ号」の写真を見た記憶がある。「あじあ号」は満鉄によって戦前に開発され、実際に運行された超特急。最高時速は130キロ。しかも全車両が空調されていた。当時、日本国内でも全車両が空調されている列車は運行されていなかった。新幹線と同じスピードを出せる列車が戦前すでに日本人の手で実用化されていたという事実は少年にとっても衝撃だった。

 満洲国の取材を開始して間もなく、その「あじあ号」が大連の機関庫に保存されていることを耳にした。これは絶対に撮影しなくてはいけない、歴史の貴重な生証人だということで、いろいろな人に聞き込みを行った結果、「あじあ号」はすでに大連にはなく、瀋陽郊外の蘇家屯というところに保管されていることがわかった。

 ところが、訪ねた蘇家屯の鉄路博物館はしばらく休館中とのことで、今後も一般公開されるのはいつになるかわからないという。当局に何度掛け合っても見学の許可が出ない。中国ではこういうことはよくあるらしいのだが、許可を出さない理由もわからない。最終的に瀋陽在住のある方のご尽力で、見学はさせてもらえることになったのだが、写真撮影はいっさい許可されなかった。

 巨大な体育館のような屋根付きの建物内には数十両の蒸気機関車がずらりと並べて格納されており、いかにも中国らしいスケール感なのだが、そのなかでも「あじあ号」を索引した「パシナ」型蒸気機関車の存在感は別格だった。きれいに塗装し直された滑らかな流線型のボディは惚れ惚れするほど美しい。「あじあ号」は2両あって、傍らの説明文によると、1両は川崎車両(現、川崎重工)の神戸工場で、もう1両は大連の工場で組み立てられたとある。どちらも1934年の製造で、1981年前後まで現役で走っていたという。

 パシナ型蒸気機関車は1934年(昭和9年)に製造が開始され、1943年(昭和18年)に製造中止されるまで計12両つくられたことがわかっている。戦後、中国当局によって何度か運行が復活され、1981年(昭和56年)前後まで実際に走行していたという。

今のトヨタ以上に巨大な会社だった

 さて満鉄の話に戻そう。満鉄は「あじあ号」に代表される鉄道の運営に関わっていたが、事業の内容はそれだけではなかった。関東州や鉄道附属地における都市計画すべてに関わっていたといってもよいだろう。港湾や上下水道、電力ガスといったインフラの整備はもちろんのこと、病院、学校、図書館、ホテル、住宅建設といった人々の暮らしに直結する事業、炭坑の採掘や製鉄所など重工業の経営、農作物の輸出など多岐にわたっていた。関連企業も多く、一大コンツェルンを形成していたといえるだろう。

 さらには鉄道附属地における公費という名の徴税業務まで行うなど、行政そのものの業務も含まれていた。ただ、本業の鉄道経営とは異なり、鉄道附属地の経営はずっと大幅な赤字続きであった。それにもかかわらず1937年(昭和12年)に鉄道附属地が廃止されるまで経営を続けたのは、それが国策だったからであり、日本にとって満洲を経営していくうえで必要不可欠な事業であったからに他ならない。

 読者のみなさんの周囲にも、満洲生まれだったり、親が満洲帰りだったりとなんらかの形で満洲と関わりのある人は少なくないと思うが、「父親が満鉄だったんだよね」というような話を私もよく耳にした。最初のうちは、鉄道会社がどうしてそんなにたくさんの労働者を雇っていたのだろうと不思議に思っていたのだが、満鉄のことを調べていくうちに、純粋な鉄道部門の仕事は一部分であることを知り、なるほどと合点した次第である。

 終戦直前には、満鉄社員の総数は約40万人にもおよんだ。この数字にはもちろん日本人以外も含まれているが、日本から家族で赴任した人や関連業者の人たちを含めると、実際に満鉄になんらかの形で関わっていた日本人の総数はかなりの数にのぼるだろう。社員のなかには日本から官僚が出向という形で赴任するケースも少なくなかった。

 単純に比較するのは難しいが、名実ともに日本最大の会社であるトヨタ自動車は子会社を含めた連結従業員数が約36万人強といわれている。しかし満鉄社員数はそれよりも多かったわけで、満洲における満鉄の存在がいかに大きなものだったか容易に想像することができるだろう。

どことなく日本の街に似ている大連

 本社が大連に置かれたこともあり、満鉄に関係する建築物は枚挙にいとまない。このうち最も重要だったのは大連港関連の施設だろう。日本からのフェリーが発着するターミナルという位置づけだけではなく、物流の拠点として大連港はまさに満洲の発展のカギを握っていたからである。そして事実、満洲国が建国された1932年(昭和7年)には、満洲国の貿易総額のうち実に75パーセントを大連港が担っていた。

 その大連の位置づけは、戦後75年たった現在でもさほど変わっていないと思われる。中国東北部の遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省において、日本と最も緊密な経済関係を結んでいる都市は大連であるからだ。大連には現在約1500社の日本企業が進出し、在留邦人は6000人を数える。また大連港の輸出入において最大の取引先は日本である。

 実際に街を歩いてみると感じることだが、大連はどことなく日本の街に似ている。どういう点が似ているのかうまく言葉で表すことができないのがもどかしいのだが、おそらくその感覚は大連が日本からの玄関口であり続けたことと無縁ではない気がする。

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大連港の旅客ターミナル正面に建つ大きな建物は1926年に竣工された大連埠頭事務所ビル。当時はこの建築物が大連一の高さを誇っており、その屋上から見渡す光景が大連の典型的な眺めということになっていた。日本から満洲へ夢と希望を抱いてフェリーでやってきた人は、ターミナルを出て最初に目にした光景がこのビルであっただろう。現在は大連港務局が入っている。

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日本からのフェリーが発着した第2埠頭旅客ターミナルは出入り口が半円状の特徴的なデザインであったが、現在は改築されて当時の名残を見ることはできない。また、一度に5000人も収容できたといわれている2階待合室のある空間には現在商業施設が入っている。しかし天井を見上げてみると、太陽光を取り入れる明かり取りが昔のままの状態で今も使用されているのがわかる。

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満鉄は1906年(明治39年)に創立されたときは本社を東京に置いていたが、翌年になって大連へ移した。そのときに社屋として使ったのがこの建物で、もともとはロシアが東清鉄道ダーリニー事務所を置いていた。1908年(明治41年)に満鉄が本社を移転した後は、一時期ヤマトホテルとしても使われていた時期があった。この建物周辺はロシアが最初に開発したためその時代の古い建築物が多数残っており、現在でも「ロシア人街」として市民に親しまれている。

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満洲一の格式を誇ったという大連ヤマトホテルは1914年(大正3年)に竣工された。日本人が満洲に建てた代表的な建築物のひとつである。このホテルが建つ中山広場はかつて大連大広場と呼ばれた街の中心地で、大連市役所、朝鮮銀行、大連警察署、東洋拓殖などのビルが並んでおり、これらはいまも現存している。ヤマトホテルは現在、大連賓館として営業しており宿泊も可能だ。満洲の残り香を嗅ぎたい人はぜひ泊まってみたらよいだろう。

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1937年(昭和12年)に満鉄の太田宗太郎によって設計された大連駅は、日本の租借地である関東州から満洲国へ渡るゲートウェイだった。上野駅を模して建築された駅舎は1階と2階が乗車と降車で隔てられており、まるで空港ターミナルのような斬新なデザインであった。ちなみに現在の上野駅は2代目で、1932年(昭和7年)に酒見佐市らの設計で完成している。

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満鉄は関東州のみならず満洲における鉄道附属地において都市計画を担った。上下水道の敷設も当然業務の一部であった。私は当時発行された古地図を頼りに満洲各地を歩いて建築物を探したが、ときおり当時の古いマンホールを見つけることもあった。満鉄の社章は頭文字の「M」とレールの断面を表す「I」を組み合わせたもの。マンホールの写真を興奮しながら撮っていると、往来する人々に何事かという顔をされることしばしばであった。


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満鉄調査部ビル。満鉄創立と共に設置された調査部は当初は純粋に満洲の地理などの調査を行っていたが、やがて政策立案そのものに大きく関わるようになり、次第にシンクタンクとしての機能を強めていった。特に満洲国が成立した以降は、官僚主導の国家統制を基盤にした社会構築を主導し、これは戦後の日本の国家モデルの原型になったといわれている。しかし満洲国末期にはその先進的な思想ゆえに関東軍の支配方法と対立するようになり、2度にわたって憲兵隊により検挙され次第に力を弱めていった。

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1919年(大正8年)に建造された世帯用の満鉄社宅である「関東館」。4階建てで「コの字」型の建築は当時さぞかしモダンだったと思われる。満鉄に優秀な社員が集まったのは、ひとつにその待遇が破格によかったためであるとも言われている。給与には特別手当が増額され、異国の地ゆえに住宅も提供された。当然のことながら幹部には一戸建てが提供されたが、たとえアパートであっても全館暖房システムが導入されるなど、当時の内地の状況に比べると格段に生活しやすかった。

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満鉄が設立した大連図書館は一般人が利用することもできたが、基本的には満鉄が情報収集のために利用する目的でつくられた。現在のようにインターネットがない時代、重要な資料や情報は図書館が所蔵していたためである。このため満鉄は各地に図書館を開設し、館員を外国に留学させるなどした。それだけ「情報」というものを重視したのである。やがて図書館はその後、満鉄調査部の一組織に組み込まれていくことになった。

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1912年(大正元年)に開校した南満州工業学校の校舎が完成したのは翌々年のこと。設計は満鉄建築係りの横井謙介が行った。その後1922年(大正11年)には南満州工業専門学校に改組された。満鉄が事業を拡大するにつれて専門的知識を持つ人材が必要になったため、満鉄は自前で技術者を養成する必要があったのである。他に南満医学堂では医師を、満洲教育専門学校では教員の養成を行った。

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黒竜江省西部の斉斉哈爾(チチハル)駅の駅舎は1936年(昭和11年)に満鉄によって竣工された。満鉄そのものは大連と長春を結ぶ路線であったが、その後にロシアと中国が共同経営していた東清鉄道(その後、北満鉄路)を満洲国が買収して満鉄に経営を委託することになった。このため満洲における鉄道は事実上すべて満鉄の支配下に置かれることになった。

 

 

【写真特集】消滅国家、満洲国の痕跡を求めて

 

JBpress (文+写真:船尾 修/写真家)

2020.9.1


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清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が再び帝位に返り咲くためには、強大な軍事力を持つ関東軍を抜きにしては考えられなかった。彼はあくまでも「皇帝」としての地位にこだわったがゆえ、関東軍を通じて日本と接近し、その夢を果たすことはできたが、それは彼が夢想した皇帝の実際とはかけ離れたものだった。

しかし1935年(昭和10年)の国賓としての訪日は、溥儀の人生においておそらく最も有頂天な日々だったはずだ。このとき天皇陛下は自ら東京駅のホームまで足を運んで溥儀を出迎えている。過去にも現在にも天皇陛下は来賓をそのような形で迎えたことはない。

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 1931918日に満洲事変が起きて以降、清朝第12代皇帝であった愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)の周辺は急にあわただしくなった。清朝が滅びてしばらくは北京の紫禁城で幽閉状態に置かれていた溥儀だが、そのころには日本の保護を受けながら天津の日本租界内にある静園で暮らしていた。当時6歳だった少年はすでに25歳となっていた。

 廃帝とはいえ、清朝という300年間続いた正当な王朝の末裔である。満洲の地の領土化を企む日本にとっても、支配を確固としたものにしたい国民政府にとっても、溥儀は政治的な利用価値が高かったはずだ。日本が天津で匿う溥儀に対して、国民政府は優待条件(つまり金銭的な援助)をたびたび申し出ていたが、溥儀の関心はただひとつ、清朝を復辟できるのかどうかにあった。

 蒋介石の国民政府は共和制を採用していたので、溥儀のこの願いはかなえられるはずがない。おそらく溥儀の胸中には同じ帝政をとっている日本に近づいたほうが復辟の可能性は高いと踏んでいたのではないだろうか。

「帝国ならば、行きましょう」

 満蒙領有から新政権樹立の方針へと舵を切った関東軍は、溥儀に新国家においてなんらかの役割を担わせようと企図し始めていた。満洲事変以降の関東軍の出兵に対して、国際社会からの批判の声が日増しに大きくなっていたからである。満洲人である溥儀を担ぎ出して表に出せば日本色を薄める効果が期待でき、そのような非難の声をかわすことができると考えていたのだろう。

 関東軍の奉天特務機関長だった土肥原賢二大佐が溥儀の天津脱出を工作することになった。特務機関というのは簡単に言うとスパイ活動や謀略、宣撫活動を計画・実行する組織である。土肥原は陸軍大学校を卒業と同時に北京や天津の特務機関に長年勤務しており、中国語も堪能でこうした重要な任務にうってつけだったといわれている。

 溥儀が戦後の1964年に著した「我的前半生」という自伝があり、邦訳も出ている(邦訳名は『わが半生』)。もちろん表現の自由が完全に保障されていない中国共産党政権下での出版物なのでその点を差し引いて読まなければならないが、土肥原が静園の溥儀を訪ねて満洲へ脱出するよう説得するくだりがあるので引用する。

 <私は気にかかっていたもう一つの重要問題について聞いてみた。

「その新国家はどのような国家になるのですか」

「さきほども申し上げましたように、独立自主の国で、宣統帝(注:溥儀のこと)がすべてを決定する国家であります」

「私が聞いたのはそのことではない。私が知りたいのは、その国家が共和制か、それとも帝政か、帝国であるかどうかということです」

「そういう問題は瀋陽(奉天)へ行かれれば、解決しましょう」

「いや」 私はあくまで固執した。「復辟ならば行きますが、そうでないなら私は行きません」

 彼は微笑したが、言葉の調子は変えずに言った。

「もちろん帝国です。それは問題ありません」

「帝国ならば、行きましょう」 私は満足の意を示した。>

最終的に溥儀が関東軍の提案に乗ることを決めたのは、清朝の復辟を土肥原が約束したためであることがわかる。ただ、このときのふたりのやり取りを読む限り、溥儀が本当に納得したかどうかは疑問だ。共和制か帝政かという話になったとき、「そういう問題は瀋陽へ行かれれば、解決しましょう」と土肥原は答えを濁しているからだ。

 しかし結果的に、土肥原は嘘をつかなかったことになる。翌1932年に満洲国が建国された際、溥儀は「執政」という肩書をもって迎え入れられたのだが、その2年後には満州国皇帝に即位することになったからである。ただ、満洲国において皇帝はなんの権限も持っておらず、名ばかりの存在であったのだが。

お飾りに過ぎなかった「執政」の地位

 話を少し戻そう。溥儀は関東軍が差し向けた二人乗りの車の後部トランクに潜み静園を脱出した。さながら楽器ケースに潜んだカルロス・ゴーンばりの脱出行である。途中の日本料理屋で軍服に着替えて変装した後、小さな汽船に乗り換えた。船内には打ち合わせ通り、紫禁城時代からの忠臣である官僚の鄭孝胥(ていこうしょ)父子がすでに待っていた。

 関東州の営口に上陸したとき、出迎えたのは満洲事変という謀略を構想したといわれる関東軍の甘粕正彦たちであった。アナキストの大杉栄らを殺害したことで有名な甘粕はその後、満洲へ渡り、さまざまな謀略に加担してきた人物で、満洲国の国策であるアヘン密輸ビジネスにも大きく関与していた。

 溥儀をその後、湯崗子温泉にしばらく滞在させた後、旅順に移動し、ヤマトホテルで「そのとき」が来るのを待った。

 約3カ月後、「そのとき」が来た。関東軍の板垣征四郎大佐が旅順のヤマトホテルまで秘密裏に足を運び溥儀と会談を持った。しかし、そのときの会談は決裂して終わる。板垣が話して聞かせたのは新国家・満洲国の国体が五族協和の共和制を取ることであり、そこでは清朝の復辟についても帝政についても一切言及されることがなかったからである。

 溥儀の著書では、翌朝に人を通じて板垣から脅迫めいた最後通牒を突き付けられ、提案を飲むしかなかったということになっているが、これを真に受けることはできない。私の想像だが、おそらく鄭孝胥父子が板垣との間に入って調停というか譲歩を行ったのではないだろうか。

 最終的に溥儀は鄭孝胥の進言を受けて、1年後には帝政に移行するという条件で、関東軍との間で満洲国の「執政」という地位に就くことを承諾する。そして初代の国務総理(首相)だが、常識的に考えれば東北最高行政委員会の委員長を務めていた張景恵が就任しそうなものだが、溥儀の側近である鄭孝胥が就任することになった。溥儀の了解を引き出した役割に対しての関東軍による論功行賞といえなくもないだろう。

「執政」という肩書だが、「満洲国組織法」によれば「執政は満洲国を統治し、立法権、行政権を行使し、陸海空軍を統率する」と記されており、これを読むかぎりほぼすべての権限を有していると解釈できる。しかし同時期に出された「満蒙問題前後処理要綱」には、表面的には立憲制をとりながら実際には日本の政治威力による独裁主義を打ち出すことが謳われている。さらに関東軍による「内面指導」によってコントロールできることまで記載されている。つまり執政などは単なるお飾りに過ぎなかったのである。

国家としての完成度は北朝鮮以下

 建国から半年後、日本と満洲国は日満議定書を交わして相互承認を行い、正式に国交が樹立された。ところがここで問題が起こった。駐満洲国日本大使に関東軍司令官の武藤信義大将が就任することになったからである。満洲国が日本の傀儡政権ではないことを内外に示すためには、軍司令官と大使は別の人を充てるべきだと外務省は主張したが、聞き入れられることはなかった。現在でも政策を巡って省庁が対立することは普通にあることだが、満洲においては関東軍の権力をだれも止めることができなくなっていた。

誰が見ても満洲国は日本の傀儡政権であることは疑いようもないが、しかし意外なことに満洲国は複数の国から承認を受け、国交を樹立した。日本と三国同盟を結んだドイツとイタリアは当然だとしても、タイやフィンランド、ハンガリーなど約20か国が国交を結んだのである。分離独立の「親」である南京国民政府でさえ1940年(昭和15年)に国交を樹立している。また国交がなくてもアメリカやイギリス、ソ連などのように満洲国に領事館を置いていた国もある。

 当時の世界は列強によって植民地支配されていた国が少なくなかったため、独立国はわずか60カ国ぐらいであった。そのうち20カ国が満洲国を承認していたのだが、それを意外に多いとみるか少ないと思うかは意見が分かれるところだろう。

 余談だが、私たち日本人からしてみれば現在の北朝鮮は孤立した国という印象を抱きがちである。日本とは国交がないのでそれも無理からぬことだろう。だが、実際には国交を樹立している国は164カ国もある。そのうち38か国へは北朝鮮人はビザ免除で入国することができる(注:新型コロナ感染後の状況は異なっていると思われるが)。

 単純な比較はできないが、そういった数字を見比べるかぎり、満洲国は北朝鮮と比べても国家としての完成度や信頼度は低かったと思わざるを得ない。満洲国は日本の傀儡国家だった、いや国際的に承認されたれっきとした独立国家だった、とその人の立場や考え方によって提示する満洲国像はまるで異なったりするものだが、その原因はやはり国家としての完成度が低かったことに起因している。

溥儀を感動させた関東軍の壮大な演出

 1934年にようやく溥儀の望み通り、満洲国は帝政に移行することになった。しかし日本側にはこれを清朝復辟につなげるつもりなど毛頭なく、ましてや皇帝に権力を移譲する「気」などさらさらなかった。ではなぜ帝政に移行することが認められたのだろうか。

 それまで満洲国は形式上「五族協和」を標榜し、大臣クラスには満蒙人を戴く取り決めであったから、いくら関東軍が「内面指導」という形で自分たちの考えを押し通そうと思っても一応は大臣と相談しなくてはならない。しかし帝政に移行させてしまえば、溥儀さえ籠絡すれば事は簡単である。宮廷内の狭い世界しか知らないで育ったまだ20歳代の若造を御することは赤子の腕をひねるより簡単だったに違いない。

 このころ盛んに「日満一体化」ということが叫ばれるようになっていた。その「一体化」を具体的な形で民衆に示すために計画されたのが、溥儀の国賓としての日本訪問であった。1935年(昭和10年)のことである。

 関東軍がすべてを取り仕切ったこの「おまつり」は壮大な演出に彩られていた。大連までわざわざ戦艦比叡を派遣し、護衛艦をつけて溥儀をはじめ満洲国の要人を横浜港まで送ったのである。日本近海では日本が誇る連合艦隊70隻が盛大に迎えたという。そしてハイライトは、汽車で東京駅に到着すると天皇陛下自らがホームまで出迎えるというものだった。最大限の特別待遇で溥儀をはじめとする随行員たちを歓迎したのである。

 このもてなしに溥儀が感動しないわけがない。日本を去るときにもらい泣きしてしまったのもうなずける。著書『わが半生』にはそのときの気持ちがこう記されている。

<私は日本が示した威力に深く脅威を感じたばかりでなく、それを私への真心からの尊敬、真心からの援助だとみなした。過去の多少の不愉快は、すべて自分の誤解のせいなのだ、と思った。>

「過去の多少の不愉快は」というのは、最初は執政という名ばかりの地位に留められたこと、帝政となってからも何事にも関東軍が介入してくること、をあらわしているのだろう。しかし訪日によってそれらの疑念と不満が一挙に吹き飛んだのである。自分はやはり日本の天皇陛下と同等なのだ、兄弟なのだ、という確信をこのとき強くした。

「お世継ぎ」が問題に

 しかし、皇帝としての地位を得た溥儀が絶頂のピークにあったのはこの頃までである。自分が日本の傀儡でしかないことを悟るのにさほど時間はかからなかった。

 皇宮内には「帝室御用掛」の吉岡安直という関東軍派遣の軍人が部屋を構えて監視しており、また出入り口には日本の憲兵が警備のために立っていて、溥儀にはほとんど自由がなかった。手紙も吉岡らにより検閲されていた。それは紫禁城内に幽閉されていた時代と何も変わらないような日々だったのだろう。

 溥儀は若干16歳のときに結婚している。しかもそのとき清朝の伝統的な因習に従って、「后」(きさき)と「妃」(ひ)というふたりの夫人を迎えている。第一夫人である后には16歳の婉容(えんよう)が、第二夫人である妃には13歳の文繍(ぶんしゅう)が選ばれた。しかし溥儀には子どもがなかった。

 一説には溥儀は同性愛者であったとも言われているが、そのことを本人が明らかにしていない以上、本当のことはわからない。ただ后の婉容が過度のストレスや猜疑心から薬物に走り、重度のアヘン中毒患者だったのは間違いなく、正常な家庭環境ではなかった。

 そのため「お世継ぎ」がたびたび問題となった。関東軍は、満洲国が清朝の血統を引く国家であることを理由に、その正当性をアピールしていた。だからこそ溥儀に利用価値を認めていたのである。子どもがないということは清朝の血統が途切れることを意味し、溥儀が崩御してしまえば満洲国の正当性は保たれなくなる。

 関東軍はさっそく手を打つ行動に出た。当時独身であった溥儀の実弟である溥傑に目をつけるのである。日本に留学して学習院、陸軍士官学校に学んだ溥傑に嫁を取らせようと画策したのだった。つまり見合いの仲介である。この件については関東軍司令官が直々に取り仕切ったと言われている。そして白羽の矢が立てられた相手とは、満洲人ではなく、日本人であった。

 華族の嵯峨公勝侯爵の孫娘である嵯峨浩(さが・ひろ)と見合いした溥傑は、自伝の中で「意外なことに、双方とも一目惚れで、私は嵯峨浩を妻にすることに同意した」と述べている。兄・溥儀と同様にいわゆる政略結婚であるのだが、溥儀と異なり家庭生活はとても円満で幸せなものだったようである。

 溥傑に子どもが生まれれば、その子は清朝の血統を引き継ぐことになるうえ、日満一体化の象徴的な存在になるはずである。そのため関東軍がこの国際結婚を大々的に宣伝したのは言うまでもない。溥傑はその後、ふたりの娘をもうけた。

日本に利用され、捨てられた皇帝

 さて兄・溥儀のほうであるが、家庭生活が完全に破綻していたためか著書の中でも家族のことについてはまったくといってよいほど触れていない。熱狂的に迎えられた日本訪問から帰国後は、ほとんど皇宮の外へ出ることもなくなり鬱々とした日々を送っていた。

 だから著書の『わが半生』にも、国賓としての訪日から帰国して以降、1945年(昭和20年)88日にソ連が侵攻してくるまで10年近くあるにもかかわらず、この間に割いたページはほとんどなく、紹介するほどのエピソードも記載されていない。おそらく失意のどん底のなかで、関東軍に騙されたという思いで暮らしていたのだろう。

 ソ連侵攻後、溥儀らは通化近郊の大栗子に逃れ、そこで満州国皇帝を退位する儀式を行った後、飛行機で日本へ亡命しようとした。しかし奉天の空港で捕らえられ、ソ連へ連行・抑留されることになる。翌年、極東軍事裁判出席のため来日したが、1950年(昭和25年)までソ連の収容所で抑留生活を余儀なくされた。

 清朝最後の皇帝として誕生した男は、異なる国である満洲国で再び皇帝の位についたものの、時代に翻弄されたまま自分自身の生を全うすることができなかった。日本に利用され、最後は捨てられることになった。

 数奇な人生を送ったこの男はその後、中国共産党政府に引き渡されて撫順の戦犯収容所などで約9年間、思想改造教育を受け、特赦によって釈放され北京に戻ったのは1959年(昭和34年)のことである。溥儀は53歳になっていた。

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現在の長春の街の東側にかつての満洲国「仮」皇宮が保存されており、偽満皇宮博物院として一般公開されている。「仮」というのは街の中心部に新皇宮が建設中だったからだ。仮皇宮には謹民楼、緝煕楼(しゅうきろう)、同徳殿などの建物があり、写真の謹民楼は官吏や外国使節たちとの謁見に使われた。玉座の他、常駐の「帝室御用係」吉岡安直の部屋もここにある。

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同徳殿内部の壮麗なホールは、溥儀の生涯を題材にした映画「ラストエンペラー」の撮影にも使用された。日本人による設計で1938年(昭和13年)に竣工され、溥儀と最後の妃である李玉琴が使用する予定だったが、このころには溥儀は関東軍や日本に対して大いなる疑念を抱いており、ここに盗聴器が仕掛けられていることを疑い、一度も使用することはなかったとされる。

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新皇宮は街の中心部に建設予定で1938年(昭和13年)に工事も始まっていたが、1943年(昭和18年)に長引く戦争の影響のため資材不足が原因で建設が中断された。高さ31メートル、横幅220メートルの2階建て建築を予定していた。その後、1950年代に中華人民共和国政府によって4階建ての形で完成。現在は通称「地質宮」と呼ばれ、吉林大学地質宮博物館として一般公開されている。正門前の広大な広場は「文化広場」で、予定では「順天広場」と名付けられることになっていた。

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溥儀は2度訪日しているが、2度目は「皇紀二千六百年記念式典」に参加するために1940年(昭和15年)に来日した。このときは式典への参加の他に、もうひとつ重要な目的があった。満洲国からの要請で、建国神廟の建立のために、天皇陛下からご神体である「鏡」を拝受することになっていたからだ。廟の御祭神は日本と同じ天照大神である。

つまり日満一体化を名実ともにするために、同じ神様を祀り、民衆も一心同体となることを求めたのである。神廟跡は礎石部分のみが残されている。鳥居は壁に塗りこめられていたが最近になって修復され、形が蘇った。

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仮皇宮の興運門の上には満洲国の国章が刻まれている。国章はそのまま皇帝旗としても使用された。キク科のフジバカマを図案化したもので、蘭花紋と呼ばれる。フジバカマは日本では秋の七草のひとつであり、万葉の時代から親しまれてきた。かつては中国原産と考えられてきたが、最近では日本原産という説が有力である。

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謹民楼の中には、1932年(昭和7年)に武藤信義大将と鄭孝胥初代国務総理大臣が日満議定書を結んだ際に使用した机がそのまま保存されている。満洲国の自立性を損なうような内容の議定書を結ぶことに抵抗があった鄭孝胥は、議定書にサインした後に辞任を申し出たが認められなかったという。議定書の内容は、日本軍の満洲への駐留を認め、日本人官吏を登用することなど、日本の権益を守る内容であり、五族共和や王道楽土などの標語は単なる飾り程度のものであった。

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溥儀の満洲への凱旋は関東軍の手によって周到に準備され実行された。天津の日本租界を脱出した後、旅順でしばらくその時期を待つことになった。その際に最初に宿泊したのが旅順ヤマトホテル。関東軍の監視の下、2階部分を占有して滞在していたと言われている。旅順ヤマトホテルは戦後、大幅に増築・改装されたため、当時の面影はほとんど残っていない。旅社や招待所などホテルとして使われていたが、私が初めて訪れた2016年にはすでに閉鎖されていた。

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瀋陽からバスで1時間ほどの距離にある撫順は世界屈指の石炭鉱であり、満洲国時代は重要なエネルギー供給源となったところだが、街の郊外に撫順戦犯管理所がある。もともとは関東軍が抗日中国人を拘禁した監獄だが、戦後に中華人民共和国が成立した以降は1950年(昭和25年)から満洲国の日本人戦犯や国民党の戦犯など1300人あまりがここに収監されて、思想改造教育が行われた。溥儀も抑留されていたソ連から解放された後、やはりここで収監された。現在は内部も開放されて博物館として利用されている。

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撫順戦犯管理所では溥儀は「981号」と番号で呼ばれた。1950年(昭和25年)にソ連のハバロフスクから中国の綏芬河へ陸路で移送されるとき、彼は死を覚悟していた。著書には「中国共産党は蒋介石を倒して、どんな〝正統〟も認めていないから、当然私に対してもしたい放題で、少しも遠慮はしないだろう」とそのときの気持ちを記している。1959年(昭和34年)に特赦を受け、北京植物園で庭師として勤務後、周恩来の計らいで満洲族の代表として政協全国委員を務めた。波乱万丈の人生であった。

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2. 「私と満州国」(武藤富男著)-文藝春秋(1988.9.1)

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1. 「中国東北の旅」~もはや、旧満州ではない~(村山孚著)-徳間書店(1986.7.31)

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