司馬遷「史記」研究家・書家 吉岡和夫さん
日経スタイル

2020/9/13

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中国・前漢時代の歴史家、司馬遷(紀元前145年ごろ~同86年ごろ)が書き残した「史記」は、皇帝から庶民まで多様な人物による処世のエピソードに満ちています。銀行マン時代にその魅力にとりつかれ、130巻、総字数52万を超す原文を毛筆で繰り返し書き写してきた書家、吉岡和夫さん(81)は、史記を「人間学の宝庫」と呼びます。定年退職後も長く研究を続けてきた吉岡さんに、現代に通じるエピソードをひもといてもらいます。(前回の記事は「トップを狂わせた『笑わない美女』」 史記のミステリー」)


自分をひどい目にあわせた者を許すのは難しいことです。自分は間違っていないと考えているなら、なおさらでしょう。泣き寝入りでは惨めさを引きずり、人から軽蔑されることにもなりかねません。どうやり返し、あるいは、許せばいいのか。中国・戦国時代(紀元前403~同221年)を生きた范雎(はんしょ)のエピソードから考えます。

トイレに放り込まれる屈辱

范雎は魏(ぎ)の国に生まれ、各地を巡り弁舌を磨きます。魏王のそばに仕えたいと考えますが、家が貧しく、自分を売り込む金がないため、まず須賈(しゅか)という人物の下で働きます。そこで経験した屈辱が彼の人生を変えます。

范雎は、斉(せい)の国への使者となった須賈に同行します。交渉はうまく運ばないのですが、斉の王は范雎の才を評価し、財貨を与えようとしました。范雎は辞退しますが、上司の須賈は怒り、彼にスパイの嫌疑をかけます。帰国後、魏の宰相、魏斉(ぎせい)に告げ口し、交渉不調の責任まで范雎にかぶせます。


魏斉の指示で范雎はむち打たれ、あばら骨や歯を折ります。苦しみのあまり死んだふりをすると、す巻きにされてトイレに放り込まれました。そこへ酔客がかわるがわる用を足しにやってきます。見せしめの罰でした。


范雎は番人に「脱出させてくれたら、必ず厚くお礼をする」と頼みます。一計を案じた番人が「す巻きの死体を捨ててきたいのですが」と魏斉におうかがいをたてると、酔った彼は確認もせずに許可します。知人らの助けもあって、范雎は張禄(ちょうろく)に改名して生き延び、強国・秦に逃れます。

范雎は秦で大出世を果たします。秦の昭王に上書して面会の機会を得ると、慎重な言い回しでまず外交政策を説きます。それで実績をあげて信頼を得ると、王にとって深い悩みの種であった内政問題に踏み込みます。権勢をふるい私腹を肥やしていた王族らの排除を訴えたのです。背中を押された王は彼らを追放し、范雎を宰相に任じます。

范雎の弁論術は、この連載で取り上げたことのある蘇秦張儀に負けていません。まず国の美点を指摘することを忘れず、悩める王の関心をひく課題を示し、歴史の教訓を語ります。イエスマンではなく、よき理解者となることで秦王の心をつかみます。

やがて范雎に復讐(ふくしゅう)のチャンスが訪れます。須賈が魏の使者として秦にやってきたのです。

范雎がわざとボロを着て群衆に紛れていると、須賈が目ざとく見つけて驚きます。粗末な姿の范雎に

 

向かい「范さん、秦で遊説しているのか」と聞くと、范雎は「逃亡の身で遊説どころではなく、日雇いの生活をしています」と偽ります。

 

須賈には負い目もあったのでしょう。范雎を食事に誘い「袍(はいとへんに弟、ていほう=綿入れ)」を与えました。そして宰相に会いたいが、取り次いでくれる者を紹介してほしいと依頼します。范雎は「私にやらせてください」と答え、主人に借りたという馬車に須賈を乗せ、自ら手綱を取って宰相のいる役所に入ります。


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                    イラスト・青柳ちか


車で長く待たされた須賈が門番に「范さんはどうして戻ってこないのだ」と聞くと「范さんという名の者はいません」との答え。「先ほど一緒に入ってきた者だよ」と重ねて尋ねると、門番は言いました。「あれは宰相です」


須賈はようやく欺かれたことに気づき、范雎の前に出ると「死んでおわびします」と平謝りです。范雎は「あなたの罪は3つある」と語り、自分が斉のスパイであるかのように魏斉に告げ口したこと、自分をトイレに放り込もうとする魏斉を止めなかったこと、トイレで辱められている自分を黙って見ていたことを挙げます。そのうえで語りかけます。


 (しか)れども公の死する無きを得る所以(ゆえん)は、袍恋恋(れんれん)として故人の意(こころ)あるを以(もっ)てなり。


それでもあなたが死なずに済むのは、私に贈った綿入れに、私を懐かしむ昔なじみの思いがこもっていたからだ――。もちろん、仕返しがこれで達せられたわけではありません。范雎は秦王に断った上で、卑しい身分の者を使って須賈の頭を押さえつけ、馬の餌を食べさせます。そして脅しました。「魏王に告げよ。急ぎ魏斉の首を持ってこい。さもなくば魏の都を攻め落とす」


このことを耳にした魏斉は逃げ出します。趙や楚の国に頼ろうとしますが、秦の武力を背景にした范雎の執拗な追及にあい、自殺に追い込まれました。


復讐に成功した范雎でしたが、自分を助けてくれた人物を重用する人事では立て続けに失敗します。それでも秦王は彼の立場を守りつづけるのですが、范雎はそれを苦にします。そこに、燕(えん)の国から流れてきた論客、蔡沢(さいたく)が現れます。蔡沢は仕官を求めて諸国を巡るものの、追い払われたり、盗賊にあったり、不遇な苦労人でした。


蔡沢は范雎の悩みを察し、人づてに范雎を挑発します。「蔡沢は天下にとどろく雄弁の士だ。彼が秦王に会えば、あなたから宰相の位を奪うことになるだろう」。怒った范雎は蔡沢を呼びつけ、その傲慢な態度にさらに怒りを募らせながら問いました。「私の地位を奪うと言ったとか。まことか」。蔡沢は「その通りです」と認め、説明を求められると名言を口にしました。


 ああ君何ぞ見ることの晩(おそ)きや。それ四時(しじ)の序、功を成す者は去る。
あなたはまだ気づかないのですか。四季の移り変わるのと同じく、功成り名を遂げた者は地位を譲るものです――。蔡沢は権力にしがみついて晩節を汚した歴史上の人物を次々にあげ、范雎に引退を迫ります。


 日、中すれば則(すなは)ち移り、月満つれば則ち虧(か)く。
太陽は南中したら日没に向かい、月も満月になると次第に欠けてゆくではありませんか――。蔡沢は引き際の大切さをくり返し訴えました。


これを聞いた范雎は蔡沢を許すだけでなく、秦王に自分が病気であると偽り、後任に蔡沢を推薦して宰相の地位を離れました。蔡沢はすぐに実績をあげますが、就任から数カ月後、やはり病と称して職を辞します。自分への陰口を知り、殺されるのを恐れたのが本当の理由でした。

蔡沢の宰相辞任の詳しい経緯は史記に書かれていませんが、恨まれたり、恨んだりするのがいやで早々に身を引いたのだと思われます。彼は宰相は辞めますが、秦の始皇帝まで4代の王に仕える功労者であったことは記されています。

「困厄」を知る人ほど

ささやかな行いを良しとして須賈の死を免じ、正論を認めて蔡沢の無礼を許した范雎は、権力者が陥りがちな破滅的な最期を免れました。「冷酷非情」「卓見に耳をふさぎ、引き際を誤った」というような悪評も残さずに済みました。

現代は不寛容の時代あるいは不機嫌な時代などと言われます。もし自分が恨みを抱いた人物がいても、相手の言動の中に、否定できない価値あるものを見つけたら、許してみるのも悪いことではない気がします。

司馬遷は「范雎蔡沢列伝」の結びとして、范雎と蔡沢の2人が「困厄(こんやく)せざりせば、悪(いづく)んぞ能(よ)く激せんや(苦労の経験がなかったら、あれほどの勢いで伸びることはなかっただろう)」と書きました。苦労した人ほど、寛容になれるのかもしれません。

吉岡和夫

1939年(昭和14年)千葉県生まれ。横浜国大経済卒。東海銀行(現在の三菱UFJ銀行)に30年間勤務。書家の古谷蒼韻氏に師事。雅号は「泰山」。中国「司馬遷史記博物館」(2016年開館)の顧問も務める。著書に『史記を書く』(1996年)、『毒舌と名言の人間学』(2005年)など。名古屋市在住。