【写真特集】消滅国家、満洲国の痕跡を求めて


JBpress(
(文+写真:船尾 修/写真家)

2020.8.4

歴史

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(写真1)旅順のランドマークともいえる白玉山塔は市街地の背後の山に聳えている。日露戦争終結後、連合艦隊司令長官の東郷平八郎と陸軍第三軍司令官の乃木希典が戦死した日本兵を慰霊するために計画して建立。1909年に完成した。高さは66.8mある。日本統治時代は表忠塔と呼ばれた。ここからは旅順港や市街地が一望できる。

 戦前、日本が起死回生を賭けて建国を進めた満洲国。しかし日本の敗戦とともにその歴史はわずか13年半で幕を閉じた。日本人にとって満洲国とはどのような意味を持っていたのだろうか。そして中国大陸におけるかつての満洲国の実体とはいかなるものであったのだろうか。

 日本と中国をつなぐ存在としての満洲国に私は興味を抱き、かつての満洲国の残り香を求めながらカメラを手に現在の中国東北部を歩きまわった。そしてその結果、当時の建築物が思いもかけない形でたくさん残されていることを知る。このたびの連載では、当時の状況や歴史的バックグラウンドを辿りながら、現在もなお残存する満洲国時代の建築物を紹介していきたい。

満洲国の出発点になった旅順、関東州

 日本が太平洋戦争へと突き進んだ原因はもちろんひとつだけではないが、日露戦争における勝利とそれに続く満洲国の建国にそのターニングポイントを求めることに異論を差し挟む余地はないだろう。日露戦争の直前、東アジアは不穏な空気でおおわれていた。ロシアを筆頭にイギリス、ドイツ、フランスといった列強が清国(現在の中国)に対して領土を割譲させ、虎視眈々とさらなる領土拡張をもくろんでいたからである。

 特にロシアは遼東半島の重要な港である旅順を清国から租借して軍事基地化を進め、朝鮮半島や日本本土に睨みを利かせるようになっていた。当時、ロシアは世界でも最強の陸軍を擁しているといわれており、日本にとって非常に大きな脅威となっていたのである。

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                      遼東半島の先端に位置する旅順(現在は大連市旅順口区)(Googleマップ)


 外交による問題解決に失敗した日本はついに1904年、ロシアに対して宣戦布告。日露戦争の始まりである。旅順に築かれた堅牢な要塞に阻まれて、日本軍は屍の山を築くことになったが、翌年にはついに攻略に成功する。日本は満洲の大地の北進を続け、遼陽、奉天(現在の瀋陽)における会戦に勝利。さらには対馬沖海戦でバルチック艦隊を撃滅することに成功し、多大な人的被害を被りながらも最終的に日本はこの戦いに勝利したのである。

 賠償金こそ取れなかったが、日本は遼東半島の租借権を手に入れ、北方の長春まで伸びる鉄道などのロシアの権益を引き継いだ。満鉄(正式名は南満州鉄道)はこのとき正式に誕生したのである。租借した遼東半島は関東州と名付けられた。なぜ「関東」という名称なのか混乱される方も多いが、これは万里の長城の東端である山海関の東側に位置することから、「関の東側」という意味である。

 またこれも混同しがちだが、関東州はその後に建国される満洲国ではなく、あくまでも日本の租借地という名の領土であることも付け加えておきたい。しかしながら満洲国の出発点は日露戦争に勝利したことによって得た旅順や関東州にあることは間違いなく、そういう意味で連載の第1回目は旅順を取り上げることにした。

街全体がまるごと博物館

 ロシアとのポーツマス条約締結後、日本は遼陽に関東総督府を設置する。初代の総督には陸軍大将の大島義昌が任命された。

 これは余談だが、現在の安倍晋三首相は父方の祖母が大島義昌陸軍大将の孫娘にあたり、つまり安倍首相は玄孫(やしゃご)ということになる。

 ついでに付しておくと、安倍首相の祖父である岸信介は戦前、当時の商工省官僚であったが、建国間もない満洲国の国務院高官として産業開発5カ年計画に携わるなど、満洲国とは切っても切れない深い関係を築いた。そうした日本の権力構造に流れる血縁の太い糸を見たとき、権力の中枢とはまさにこういうことを言うのかと粛然とする思いだった。

 話が少しそれた。関東総督府は軍政を敷いたが、清国や欧米列強から批判を受けたため、機構を改変して名称も関東都督府に変更する。その後、1919年に民政に移管後は関東庁に再度名称を変更、このとき軍部は独立して後に「泣く子も黙る」と称された関東軍が発足することになったのである。その機構改変に伴い、関東軍司令部および関東庁は旅順に置かれることになった。

 近年の中国における都市再開発のスピードは私たち日本人の想像をはるかに越えるほどすさまじいものだが、こと旅順(現在は大連市旅順口区)に関してそれは当てはまらない。おそらくその理由は旅順が軍港であることと無関係ではないだろう。

 地図を見るとよくわかるが、黄海と渤海に挟まれて南へ大きく張り出している遼東半島の最も先端にある旅順は、地政学的に非常に重要な位置にある。そのため旅順はロシア占領時代から軍港として栄えた。関東軍司令部が街の規模がはるかに大きい大連ではなく旅順に置かれたのもそのためだと思われる。現代においても中国にとって重要な軍港であることに変わりはない。そのため比較的自由な個人旅行が許可されるようになったのはわりと最近の話である。

 私は実際に訪れてみて、この地に日露戦争時の戦跡や満洲国時代(関東州の時代)の建築物が多数保存されていることに驚いた。街全体がまるごと博物館といっても過言ではないかもしれない。それはおそらく軍事拠点としての旅順だからこそ過剰な再開発の波から逃れることができたためだろう。

 今回の連載では、現代の中国東北部に残存する満洲国時代の建築物を訪ねることによってその歴史的背景を検証し、日本人がかつてこの地でどのようなことを考え何をしようとしていたのかを考証してみたいと思う。

旅順の建築物(写真9点)

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(写真2)ロシア軍が築いた堅牢な要塞に手を焼き、日本軍はなかなか攻略することができなかった。そこで攻撃目標を防御が手薄な二〇三高地に変更する。二〇三とはその山の標高が203メートルであることから付けられた。多大な人的被害を出しながら最終的に山頂を占領することに成功する。日本軍はここに陸軍最大の28センチ砲を据え付けて旅順港を攻撃したが、実際にはどれほどの効果があったのかは議論が分かれるところだ。戦後、乃木将軍は散乱していた砲弾の破片などを集めて当て字の「爾霊山(にれいさん)」と揮毫した実弾型の記念碑を建立した。

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(写真3)旅順郊外にロシアによって築かれた防御要塞である東鶏冠山北堡塁は難攻不落を誇り、第1回目の総攻撃では日本軍は全滅した。その要塞跡は現在一般公開されて、当時の激戦の様子を伝える生々しい砲弾跡や塹壕がそのまま残っている。1926年に建立された記念碑も残り、そこには「明治三十七年八月以来第十一師団ノ諸隊及後備歩兵第四旅団ノ一部隊之ヲ攻撃シ同年十二月十八日占領ス 陸軍大将男爵鮫島重雄碑銘ヲ書ス 大正五年十月 満洲戦跡保存會」と記されている。

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(写真41919年に設立された天皇直隷の軍隊である関東軍司令部が置かれた建物。その後、日本は徐々に勢力を拡大し、1931年に満州事変が起きると、関東軍司令部も奉天(現在の瀋陽)へ移った。さらに翌1932年に満洲国が建国されると、首都はさらに北方の新京(現在の長春)に定められたため、関東軍司令部も新京へ移った。

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5)日露戦争後に日本が関東都督府を置いた建物。その後、関東軍の独立と共に関東庁となる。もともとはロシアが1903年に設立した極東総督府として使用していた建物である。1937年に関東庁が関東州庁に機構改変されて大連に移るまで、関東州の行政の中心として権威を保ち続けた。

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(写真61903年にロシアが運営する東清鉄道の支線として開通した旅順駅。美しいフォルムを誇る木造建築は現在もほとんど変わっていない。日露戦争後には旅順は大連と並んで戦跡巡りのための人気観光地となり、旅順駅は一日に5000人もの日本人観光客が利用する時期もあったという。私が最初に訪れたのは2016年だが、そのとき鉄道の運行はすでに停止され、大連と結ぶ交通はバスに取って代わられていた。

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(写真7)旅順刑務所は現在、日露監獄旧趾博物館として一般公開されている。1902年にロシアが建設し、その後日本が増築した。内部には朝鮮半島出身の安重根に関する展示が充実していた。安重根とはときの枢密院議長であった伊藤博文をハルビン駅にて暗殺した男である。安は逮捕された後、ここ旅順刑務所へ移送され獄死した。中国でも「抗日烈士」のひとりとして扱われているのである。

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(写真8)旅順高等法院は現在、日本関東法院旧趾陳列館として一般公開されている。1907年に建てられ、高等裁判所および地方裁判所として使われた。韓国の英雄、安重根もこの裁判所で裁かれ死刑判決を受けている。彼の最後の陳述は理路整然と大韓民国の独立と東洋平和・共存を訴えるものであり、傍聴人は固唾をのんで聞き入ったという。

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(写真9)現在も旅順博物館として使用されているこの建築物は元々ロシア将校クラブとして開館されたもの。1917年に関東都督府が満蒙物産館としてその後を継いだ。関東軍司令部とは広場を挟んだ目と鼻の先にある。現在でも中国東北部を代表する規模を誇るこの博物館の目玉はずばり「大谷コレクション」。西本願寺第22代当主だった大谷光瑞が中央アジア探検の際に蒐集した仏像や仏教彫刻、さらにミイラなど、大変貴重なものが収蔵され一般公開されている。

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10)旅順は今も昔も「軍港の街」であり、現在は中国海軍の基地や施設があちこちに点在しているため、大規模な都市再開発が行われてこなかった。このため旧市街には戦前のロシア統治時代や日本統治時代の建築物がたくさん残されている。その多くは由来や建設年を同定することが困難だ。廃墟のようになっている建物もあれば、改築されて集合住宅や個人住宅として使用されているものも多い。街全体がまるごと博物館であるといわれるゆえんで、ぶらぶら歩きが楽しい。しかし現代の中国は管理社会化が進んでいることもあり、特に日中関係が微妙な時期にはあらぬ疑いを掛けられないよう旅行も細心の注意が必要かと思う。