日本経済新聞 電子版(編集委員 吉田忠則)

2020/1/30

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武漢市のスーパーで市民と対話する中国の李克強首相(127日)=AP


中国で新型コロナウイルスによる肺炎が猛威を振るっている。春節(旧正月)による中国人の海外旅行で世界に感染の懸念が広がる中、浮き彫りになったのは中国当局の後手の対応だけではない。急激な経済発展の陰で解決されずに残る社会のひずみの大きさだ。

「コロナウイルスの感染による肺炎が発生して以降、すぐさま手を打ち、関係部門と地方は一連の対策をとってきた」。李克強(リー・クォーチャン)首相は120日に開いた国務院常務会議でこう強調した。指導部の立場で対応が後手に回ったと認めることはとてもできないのだろうが、感染とともに広がった社会の動揺を見るとうつろに響く。

インターネットで拡散した情報の一つが、発生源となった湖北省武漢市の食品価格の高騰だ。感染を封じ込めるため、同市が公共交通機関の運行を一時停止したことを受け、ネットでは画像とともに「白菜の値段が跳ね上がった」「スーパーの野菜売り場にほとんどものがなくなった」などの書き込みがあふれかえった。

ネットに流れたキーワードは「法外な値段の野菜」。事態を重く見た同市の複数のスーパーは声明を出し、「全力を挙げて供給を保っている」「春節中の物価の安定を保障する」と強調。ネットに出回った画像について「出どころを確かめている」とした。市の封鎖という異常事態による感染への不安と物価上場への懸念が重なり、庶民の不満に火がつくのを躍起になって防ごうとした。

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武漢市の鉄道の駅は封鎖された(123日)=AP

武漢市の外に出ると、さらに深刻な事態が起きていた。同市から来る人の排除だ。流言の類いではない。周先旺武漢市長は126日の記者会見で、懸念を明らかにした。「人々は本能的に未知の事物を恐れる。ここ数日、一部の地方で武漢人の排斥という非理性的なことが起きている」。市長は率直にこう認めたうえで、「そんな状況に遭っても、ぜひとも冷静さを保ってほしい」と訴えた。

市長の発言は春節などに伴い、武漢市をすでに離れた人々に呼びかけたものだ。だが影響は武漢市にとどまらず、湖北省から他の地域に移動する人にも広がっていた。「一部の地方は湖北省の自動車が入るのを拒否した」「湖北ナンバーの自動車に給油するのを拒絶した」「ホテルが宿泊を拒んだ」などの情報が飛び交い、正月気分に影を落とす。


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武漢市内の薬局でマスクを買い求める人(122日)=AP

地域に関係なく、各地で問題になっているのが捨てられたマスクが流通しているのではないかという不安だ。ネットに流れるのは、誰かが捨てたマスクを段ボールに詰めた写真。本来の役割とは裏腹に、非衛生的なマスクが販売されるのを防ぐため、「ハサミで穴を開けてから捨てよう」といった極端な意見が飛び出す。警戒は、中国全土に広がっている。

一連の混乱の背景にあるのは、日本の約3倍という巨大な経済大国になったにもかかわらず、脆弱なままの社会の仕組みだ。中国経済に詳しい肖敏捷・AISキャピタル代表パートナーは「中国はITや人工知能(AI)などのイノベーションが注目されてきた。だが経済の発展と社会の発展との間にはギャップがある」と指摘。とくに武漢市の人を排除する動きについて「社会の対立であり、病気以上にダメージを残す」と話す。

あらわになったのは、未整備な医療システムであり、非衛生的な生活環境。当局がいくら掛け声をかけても解消しない富の格差が、物価上昇への庶民の不満を増幅する。捨てられたマスクの違法販売も、実際に格安のマスクを買い求める人々がいてはじめて成り立つ。米国と覇を競うほどの技術革新は、経済規模に見合うような社会を作り上げることを必ずしも優先してこなかった。

新型肺炎の制圧に向けた戦いは今後も長期にわたって続く見通しだ。その間に起きる様々な混乱は、中国がより健全な社会を築くための教訓となって後にいかされるだろうか。感染拡大の防止とともに、中国に投げかけられた重い課題と言うべきだろう。