知られざる「引揚孤児」のその後(1)

現代ビジネス(石井光太 ノンフィクション作家)

2019.9.4

 

骨に皮を被せたような子供たち

昭和20年、太平洋戦争が終結した後、神奈川県横須賀市の浦賀町にある木造の長屋のような建物には、大勢の身寄りのない子供が30人ほど、骨と皮ばかりの餓死寸前の体になって身を寄せ合っていた。

彼らの体は一様に皮膚病でただれたようになっていたが、薬一つつけてもらっていなかった。寒さからなのか、不安からなのか、震えて奥歯を鳴らしている者さえいる。手足は枯れ枝のように細く、一度すわり込めば立ち上がることもできず、声をかけられても何の反応も示さない。ただ、目の白い部分だけがぎょろりと光っているのである。

こうした子供たちの様子を、樋口宅三郎は次のように述べる。

一人として栄養失調ならざるはなく、顔色は土色で、もうこの上は痩せたくても痩せられぬという状態

にあった。羽根をむしりとられた裸の雀の子たちが、私の迎えた孤児たちの姿であった。中には頭髪が

すっかり抜け落ちてしまった女の子さえあった。人間はここまで痩せ得るものか、ここまで痩せても、

なお生きていられるものか、骨に皮を被せたような、そうした子供たちだったのである。(『人生の路

地』)

この子供たちが収容されていた建物は、敗戦後につくられた「引揚同胞一時収容所(後の鴨居援護所)」だった。

戦前から戦中にかけて大勢の日本人が海を渡り、中国をはじめとした大陸の国々やフィリピンやパラオなどの島国に移り住んでいた。

駐留する日本兵相手のビジネスをしようとした者、田畑を切り拓いて農業をはじめようとした者、異国の地で新たな事業を起こそうとした者などが続々と集まっていたのだ。

だが、日本が戦争に負けたことで、彼らの運命は180度変わることになる。彼らは現地で集めた家財を投げ捨て、敗戦国民として追われる立場となり、ほとんど着の身着のままで船に乗って日本にもどってきたのである。

 

「引揚孤児」たちのその後

こうした帰還者たちは「引揚者」と呼ばれた(兵士は「復員兵」と呼ばれた)。日本には引揚者を受け入れる港が主な所だけで15ヵ所以上あり、横須賀の浦賀港は、博多港、佐世保港、舞鶴港につぐ4番目に多い564625人を受け入れていた。

引揚者といえば、一般的には中国の満州からの引揚を想起されることが多いだろう。だが、浦賀港はフィリピンやサイパンやパラオといった中部太平洋や南方諸地域島からの引揚が主だった。

フィリピンやサイパンでは、「玉砕」という名の"全滅作戦"が行われたことは知られているが、日本兵だけでなく、一般人である移民たちもまた戦火に巻き込まれていたことはあまり語られない。そして、農業、理髪業、雑貨業などを営むごく普通の日本人たちが、幼い子供共々戦争に巻き込まれて行ったのである。

冒頭で述べた子供たちは、中部太平洋や南方諸地域の激戦地で家族や親戚を失い、なんとか生き長らえた者たちだ。彼らはたった一人、あるいは幼いきょうだいとともに引揚船に乗り込み、日本に帰ってきた「引揚孤児」たちだったのである。

だが、その日本には、彼らを養ってくれる家族も親戚もいなかった。そういう子供たちが、引揚同胞一時収容所の片隅で餓死寸前の状態にまで追い込まれていたのである。

これまで私は『浮浪児1945‐戦争が生んだ子供たち』(新潮文庫)等で、敗戦後の浮浪児について記してきた。この短期集中連載では、知られざる「引揚孤児」のその後について述べたい。

 

父親が家族を残して失踪

冒頭の樋口宅三郎は、横須賀にたどり着いた大勢の引揚孤児たちの救済に人生の多くを注いだ人物だ。まず、彼の引揚孤児たちとの出会いからはじめたい。

樋口は明治3410月に宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)で生まれた。日々の暮らしは困窮しており、樋口が5歳の時、一家で岩手県釜石市へ移住した。父親は鉱山に職を得たものの、当時の厳しい労働環境に耐えられなかったのだろう、ある日突然姿を消してしまった。家族を残して、失踪したのである。

一家は、大黒柱を失ったことでより貧困にあえぐことになった。樋口は家族を支えるために若くして鉱山で働きはじめる。学業をまともに受けられなかった彼は、「早稲田中学講義録」を購入し、必死に独学をつづけた。いつか釜石の鉱山を離れ、都会で大きな仕事をしたいと思っていた。

その夢は18歳で実現することになる。樋口は叔父を頼って横須賀へ移り住み、地元紙である相模中央新聞に就職したのだ。彼は若い頃の勉強不足を百科事典を丸暗記することで補った。そうした努力のつみ重ねで、間もなく記者として頭角を現すようになる。そして29歳で横須賀日日新聞を創刊。さらには神奈川日日新聞(現・神奈川新聞)を創刊し、社長に就任した。

時を前後して、樋口は、財団法人である「横須賀隣人会」の設立にも携わった。横須賀隣人会は、大正12年に起きた関東大震災の後に活動を本格化させ、婦人授産事業、家庭副業奨励、託児事業などを地域住民への社会事業として行った。婦人授産場とは、生活に困窮している女性に仕事を与えることで自立を支援する施設であり、戦時中は海軍下士官の兵服縫製の仕事を受注することで大きく発展した。

そうした中、昭和20815日の敗戦の日が訪れた。

 

死に瀕した子供たちを救うには

日本が連合軍に対して無条件降伏をし、玉音放送が流れた日、樋口は43歳になっていた。彼はすでに新聞業界の第一線を退き、戦後の混乱の中で生活に苦しむ人々の支援に携わっていた。横須賀隣人会は、主力事業として行っていた兵服縫製の仕事が失われたことで、託児所を主とした子供の福祉事業に力を入れる方針を決めていた。

そんな中、地元の浦賀港ではじまったのが引揚者の受け入れだった。戦後に太平洋の島々や大陸から引き揚げてきた人たちは、港に設置された施設で殺虫剤であるDDTの粉を全身にふりかけられ、検疫検査などの身体検査を受けた。身元が明らかになり、検査等で問題がなければ、それぞれ汽車に乗るなどして地元へと帰っていった。

しかし、異境の地で戦火によって親を失い、一人で帰国してきた子供たちは行く当てがなかった。日本に親族がいるかどうかもわからないし、いたとしても混乱で連絡が取れなくなっていた。そんな子供たちが収容されていたのが、引揚同胞一時収容所だった。

ある日、樋口は次のような噂を耳にする。

「大勢の引揚孤児たちが施設に集められ、食べ物もないような状態に置かれているらしい」

樋口は半信半疑で新聞記者を引き連れ、引揚同胞一時収容所の視察に行くことにする。そこで目にしたのは、冒頭で述べたような、栄養不良から痩せこけ、立つことも、しゃべることもできなくなってうずくまっている子供たちの姿だった。日本の港にたどり着いたものの、栄養失調で命を落とした子供もいるらしい。

――このまま放っておけば、今いる子供たちも、これから引き揚げてくる子供たちも同じような末路をたどることになる。

樋口は即座に子供たちの救出に動きだすことを決意する。その日のうちに横須賀隣人会の会長代理だった阿部倉吉に話をつけ、理事会の招集を二の次にして引揚同胞一時収容所の孤児たちの救出に着手したのだ。それだけ多くの子供たちが死に瀕していたのである。

問題は、引き取った子供たちをどこに住まわせるかということだった。樋口が目をつけたのが、横須賀市内にあった2階建ての旧海軍高等官宿舎だった。この建物(455.25坪)と倉庫(6坪)を関東財務局から借り、引揚孤児収容所「春光園(後に春光学園)」を創設することを決めたのだ。

 

絶望的な状況からのスタート

昭和20121日、春光学園は正式に開設された。会長には横須賀隣人会の会長代理の阿部を据え、樋口は理事として実務に携わることになった。

122日、さっそく樋口はトラックで引揚同胞一時収容所に乗り付け、収容されていた30人あまりの子供たちを荷台に乗せて園につれてくる。到着後、荷台の子供を一人ひとり抱き下ろしたが、ちゃんと地面に立つことのできる子供たちはいなかった。栄養失調のため、地面に下ろした途端に崩れ落ちるようにすわり込んだり、倒れたりするのだ。玄関までのわずか2メートルほどの距離を自力で歩いてたどり着けたのは、わずか3人だった。

帰国した当初のことを、当時6歳だった少女は次のように語っている。

「日本に帰った時はとにかく寒くて寒くてならなかったのを覚えています。私はダバオから来ましたら、日本の冬が氷水を浴びているみたいで寒くて、日中でもガタガタと体の芯から震えが起ってくる。その上、これからどうなるのかわからないでしょ。その不安もあったと思います。とにかく、これからどうなるのかが怖かった」

樋口の目にも同じように映っていたようだ。園に来た子供たちは、来る日も来る日も無言で震えているだけで部屋の外へ出ようとしなかったという。布団にもぐり込み、放心したようにただ天井を見上げているばかりだった。

樋口は次のように記している。
その目に何が映っていたのだろうか。生まれ故郷の南洋の島々か、その島に砲弾、爆撃で一片の肉、一本の骨も残さずに散華した父母兄弟の面影か、砲弾を逃れて、山中に左右に愛児を抱きながら、飢餓のうちに野倒死した父母の苦悶の姿か。

 私は慰める言葉も、あやしてやるすべも知らずに茫然と眺めて一と月あまりをすごした。


こうした子供たちを育てるのは、決して簡単なことではなかった。子供たちの心の傷は、今でいえば戦争のPTSDだ。そんな言葉の概念さえなかった時代、樋口らは手探りで子供たちの崩壊寸前の精神を支えなければならなかった。

また、感染症も蔓延していた。子供たちは皮膚病である疥癬(かいせん)によって全身を侵されていたため、職員が抱いて硫黄風呂に入れてあげなければならなかった。だが、その職員たちにも瞬く間にそれが感染し、手足から血が滲み出て苦しむようになった。

春光学園の出発点は、まさに子供たちの心身の病が職員にまで蔓延していく絶望的な状況にあったといえるだろう。それでも樋口はさらなる引揚孤児たちの救出に乗り出すだけでなく、路上で寝起きしている浮浪児たちにも手を差し伸べ、園を児童養護施設として発展させていくのである。

プロフィール:石井光太

ノンフィクション作家、小説家、作家。197727日東京都生まれ。日本大学藝術学部文藝学科卒業。代表作に『物乞う仏陀』(文春文庫)『遺体ー震災、津波の果てに』(新潮文庫)、『「鬼畜」の家〜わが子を殺す親たち』(新潮社)他多数。